「智慧」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | 当時のシナ仏教徒はプラジュニャーを智と慧の二語の熟語にすることによって仏教独自の意味を表現しようとしたのであろう。漢訳経典はそのような意味において全く違う異文化であるインドの仏教思想の受容に苦労したのであった。<br> | ||
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:進むを知りて退くを守るを「智」といふ。空・無我を知るを「慧」といふ。 智によるがゆゑに自楽を求めず。慧によるがゆゑに、我心の自身に貪着することを遠離す。 | :進むを知りて退くを守るを「智」といふ。空・無我を知るを「慧」といふ。 智によるがゆゑに自楽を求めず。慧によるがゆゑに、我心の自身に貪着することを遠離す。 |
2017年2月25日 (土) 16:12時点における版
ちえ
梵語プラジュニャー(prajñā)の漢訳。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
智慧はプラジュニャー(prajñā)の漢訳語として翻訳されたが、本来はプラジュニャーは「慧」と漢訳され智と区別していた。智はジュニャーナ(梵語 jñāna)の意で物事を分別する知恵・知識のを指していた。
当時のシナ仏教徒はプラジュニャーを智と慧の二語の熟語にすることによって仏教独自の意味を表現しようとしたのであろう。漢訳経典はそのような意味において全く違う異文化であるインドの仏教思想の受容に苦労したのであった。
なお、曇鸞大師は智は
- 進むを知りて退くを守るを「智」といふ。空・無我を知るを「慧」といふ。 智によるがゆゑに自楽を求めず。慧によるがゆゑに、我心の自身に貪着することを遠離す。
と、智は衆生済度の方便として外へはたらき、慧は般若として内にはたらくものとされている。
親鸞聖人は、国宝本『浄土和讃』の「智慧の光明はかりなし」の智慧の左訓に、
- 智は、あれはあれ、これはこれと分別して思ひはからうによりて、思惟に名づく。慧はこの思ひの定まりて、ともかくもはたらかぬによりて、不動になづく、不動三昧なり。(原文は漢字もカタカナ)
とされておられる。