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「禅」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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禅には、しずかという意味もあり、心を静かにするということ。この意を引いて梵語ディヤーナ(dhyāna)の翻訳語にあてた。『五会法事讃』に、
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:如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、〈王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。 ([[行巻#no35|行巻 P.170]])
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とある「王いま座禅して」とは禅宗の修行法としての座禅ではなく、心静かに座すという意である。
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2017年7月2日 (日) 13:05時点における最新版

ぜん

 →禅定(ぜんじょう) (往生礼讃 P.670)

 底本 (青蓮院本) には 「神」 とある。 (要集 P.1028)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

禅には、しずかという意味もあり、心を静かにするということ。この意を引いて梵語ディヤーナ(dhyāna)の翻訳語にあてた。『五会法事讃』に、

如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、〈王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。 (行巻 P.170)

とある「王いま座禅して」とは禅宗の修行法としての座禅ではなく、心静かに座すという意である。