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「大悲広慧の力」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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もろもろの功徳を修習することあたはず。ゆゑに[[因なくして…奉事せん|因なくして]]無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人等は、みな昔の縁、疑悔をなして致すところなればなり〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随ひて、もろもろの善根を種ゑて、仏智乃至広大智を希求することあらん。'''みづからの善根において信を生ずることあたはず'''。仏の名を聞くによりて[[信心]]を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず。かれらの衆生、[[華胎]]のうちに処すること、なほ園苑宮殿の想のごとし〉」と。{抄要}([[化巻本#P--379|化巻 P.379]])  
 
もろもろの功徳を修習することあたはず。ゆゑに[[因なくして…奉事せん|因なくして]]無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人等は、みな昔の縁、疑悔をなして致すところなればなり〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随ひて、もろもろの善根を種ゑて、仏智乃至広大智を希求することあらん。'''みづからの善根において信を生ずることあたはず'''。仏の名を聞くによりて[[信心]]を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず。かれらの衆生、[[華胎]]のうちに処すること、なほ園苑宮殿の想のごとし〉」と。{抄要}([[化巻本#P--379|化巻 P.379]])  
 
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仏教とは智慧と慈悲の宗教であり、特に浄土教は慈悲を重視するので、如来の大悲と如来の広慧の力によって信を賜ることを「大悲広慧の力」とされたのであろう。また大悲とは「行巻」で「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり」([[行巻#no1|行巻 P.141]])という選択本願念仏の可聞可称の〔なんまんだぶ〕であった。
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「もろもろの功徳を修習することあたはず」とは、華胎に閉じ込められて浄土の菩薩の還相回向が出来ないことをいう。なお、仏教とは智慧と慈悲の宗教であり、特に浄土教は慈悲を重視するので、如来の大悲と如来の広慧の力によって信を賜ることを「大悲広慧の力」とされたのであろう。また大悲とは「行巻」で「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり」([[行巻#no1|行巻 P.141]])という選択本願念仏の可聞可称の〔なんまんだぶ〕であった。
  
 
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2017年7月25日 (火) 22:15時点における最新版

だいひこうえのちから

 広大ですぐれた阿弥陀仏の慈悲と智慧の力。(信巻 P.211, 浄文 P.480)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

「広慧の力」とは『如来会』の胎化得失(方便化土の胎生と真実報土の得失)を説く一段(*)にあり、真実報土への往生の信は「みづからの善根において信を生ずることあたはず」とされる。そして如来の智慧である「広慧の力」に依るがゆえに正覚の蓮華のうちに化生するのだとされる。御開山はこの『如来会』の文を「化巻」で以下のように引文され、おのれの修する雑多な自力の善に迷うなとされる。

【8】『如来会』(下)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智威徳智広大智を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず
この因縁をもつて、五百歳において宮殿のうちに住せん。{乃至}阿逸多(弥勒)、なんぢ殊勝智のものを観ずるに、かれは広慧の力によるがゆゑに、かの蓮華のなかに化生することを受けて結跏趺座せん。なんぢ下劣の輩を観ずるに、{乃至}
もろもろの功徳を修習することあたはず。ゆゑに因なくして無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人等は、みな昔の縁、疑悔をなして致すところなればなり〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随ひて、もろもろの善根を種ゑて、仏智乃至広大智を希求することあらん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。仏の名を聞くによりて信心を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず。かれらの衆生、華胎のうちに処すること、なほ園苑宮殿の想のごとし〉」と。{抄要}(化巻 P.379)

「もろもろの功徳を修習することあたはず」とは、華胎に閉じ込められて浄土の菩薩の還相回向が出来ないことをいう。なお、仏教とは智慧と慈悲の宗教であり、特に浄土教は慈悲を重視するので、如来の大悲と如来の広慧の力によって信を賜ることを「大悲広慧の力」とされたのであろう。また大悲とは「行巻」で「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり」(行巻 P.141)という選択本願念仏の可聞可称の〔なんまんだぶ〕であった。