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「聴聞」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 仏法をきくこと。
 
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;聴聞(ちょう-もん)
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 聴も聞も、言語、声、音を「きく」という意。 →[http://www.kanjipedia.jp/kanji/0004839100 聴] →[http://www.kanjipedia.jp/kanji/0006190200 聞]<br />
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『教行証文類』では、魏訳の『無量寿経』の往覲偈に相当する『平等覚経』の文を引文しておられる。御開山は、この『平等覚経』の「宿世時見仏者 楽聴聞世尊教(宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん)」の聴聞の左訓に「ユルサレテキクシンシテキク」とされておられる。『平等覚経』の当分では偈文としての字数を揃えるために同じ「きく」という意味の聴と聞を合わせて聴聞と熟語にしたのであろう。ただ御開山は、この漢字はこういう意味なのですよ、読む者に教えるために個々の漢字の意味を和語であらわす[[左訓]]をされることが多い。<br />
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聴(聽)という漢字には、「ききいれる(聴許)」という意から転じて「ゆるす」という意味もあるので「ゆるされてきく」と左訓されたのであろう。日本語は同音異義語が多いので、漢字に還元しなければ本来の語の正確な意味がわからない場合が多い。例すれば、和語の「はかる」には、画、図、揆、議、計、権、測、忖、度、謀、料、量、称などの漢字がある。和語では同じ「はかる」と読む漢字なのでが、例えば体積をはかる量(はか)ると、深さや軽重を測(はか)るとは意味が異なるのであった。御開山は「称」とは、天秤ばかりにかければ、かけられたものがかけられたとうりに相応するという意で、称名という〔なんまんだぶ〕を領解しておられたことは、和語で表現された以下の『一念多念証文』の解釈からわかる。
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:「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。([[一多#no21|一多 P.694]])
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ともあれ、同じ「きく」を意味する聴と聞なのだが、角川の『新字源』(昭和44年19版)の同訓異義には、
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:聴 聴こうとして聴く、よく聴く。
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:聞 耳にはいる。聞える。
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とあり、聴とは能動をあらわし聞とは受動をあらわす意であろう。聞は聞えると送り仮名ができるが、聴の字は聴こえると送り仮名ができないとされる意である。
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なお、御開山も依用されたという最古の部首別漢字字典である『説文解字』には
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:往曰聽。來曰聞。
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::往くを 聴といい、来るを 聞という。
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とあり『大学』の「大学曰。心不在焉。聴而不聞(大学にいわく、心ここにあらざれば、聴けども聞こえず)」を引く。<br />
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要するに、「聴」とは単に言葉の辞書的意味を聴くだけであり、その言葉によって心が全く新しく開けおこることを「聞」というのであろう。聞いたままが、そのまま心に印現することを聞というのであった。浄土真宗では「聞即信」と、聞こえたままが信心であるというのであるのも、このような意味なのであった。

2017年9月7日 (木) 18:44時点における版

ちょう-もん

 仏法をきくこと。  【左訓】「ゆるされてきく、信じてきく」(行巻 P.145化巻 P.401,一代記 P.1237, P.1270)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

聴聞(ちょう-もん)

 聴も聞も、言語、声、音を「きく」という意。 → →
『教行証文類』では、魏訳の『無量寿経』の往覲偈に相当する『平等覚経』の文を引文しておられる。御開山は、この『平等覚経』の「宿世時見仏者 楽聴聞世尊教(宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん)」の聴聞の左訓に「ユルサレテキクシンシテキク」とされておられる。『平等覚経』の当分では偈文としての字数を揃えるために同じ「きく」という意味の聴と聞を合わせて聴聞と熟語にしたのであろう。ただ御開山は、この漢字はこういう意味なのですよ、読む者に教えるために個々の漢字の意味を和語であらわす左訓をされることが多い。
聴(聽)という漢字には、「ききいれる(聴許)」という意から転じて「ゆるす」という意味もあるので「ゆるされてきく」と左訓されたのであろう。日本語は同音異義語が多いので、漢字に還元しなければ本来の語の正確な意味がわからない場合が多い。例すれば、和語の「はかる」には、画、図、揆、議、計、権、測、忖、度、謀、料、量、称などの漢字がある。和語では同じ「はかる」と読む漢字なのでが、例えば体積をはかる量(はか)ると、深さや軽重を測(はか)るとは意味が異なるのであった。御開山は「称」とは、天秤ばかりにかければ、かけられたものがかけられたとうりに相応するという意で、称名という〔なんまんだぶ〕を領解しておられたことは、和語で表現された以下の『一念多念証文』の解釈からわかる。

「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。(一多 P.694)

ともあれ、同じ「きく」を意味する聴と聞なのだが、角川の『新字源』(昭和44年19版)の同訓異義には、

聴 聴こうとして聴く、よく聴く。
聞 耳にはいる。聞える。

とあり、聴とは能動をあらわし聞とは受動をあらわす意であろう。聞は聞えると送り仮名ができるが、聴の字は聴こえると送り仮名ができないとされる意である。 なお、御開山も依用されたという最古の部首別漢字字典である『説文解字』には

往曰聽。來曰聞。
往くを 聴といい、来るを 聞という。

とあり『大学』の「大学曰。心不在焉。聴而不聞(大学にいわく、心ここにあらざれば、聴けども聞こえず)」を引く。
要するに、「聴」とは単に言葉の辞書的意味を聴くだけであり、その言葉によって心が全く新しく開けおこることを「聞」というのであろう。聞いたままが、そのまま心に印現することを聞というのであった。浄土真宗では「聞即信」と、聞こえたままが信心であるというのであるのも、このような意味なのであった。