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「十念」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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蓮如さんは『御一代記聞書』で、
 
蓮如さんは『御一代記聞書』で、
 
:おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なり とこころうれば、口も心もひとつなり。 ([[一代記#P--1232|一代記 P.1232]])
 
:おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なり とこころうれば、口も心もひとつなり。 ([[一代記#P--1232|一代記 P.1232]])
と、心口の表裡で示している。
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と、口と心の表裡で示されている。
  
 
圭峰宗密は、『普賢行願品鈔』に、所念の仏の種類に従って、一、称名念仏、二、観像念仏、三、観相念仏、四、実相念仏の四種念仏を説き、次第に浅深があるとして「最後為妙」と断じている。すなわち称名は最も浅劣な念仏であり、実相念仏は最も深妙であるというのである。このような理観を中心とし、称名を浅劣な方便加行とみるのは聖道門の念仏観に共通していた。
 
圭峰宗密は、『普賢行願品鈔』に、所念の仏の種類に従って、一、称名念仏、二、観像念仏、三、観相念仏、四、実相念仏の四種念仏を説き、次第に浅深があるとして「最後為妙」と断じている。すなわち称名は最も浅劣な念仏であり、実相念仏は最も深妙であるというのである。このような理観を中心とし、称名を浅劣な方便加行とみるのは聖道門の念仏観に共通していた。

2017年10月26日 (木) 17:56時点における版

じゅう-ねん

 十声の念仏。『大経』第十八願文の「乃至十念」の念は、もと心念の意ともみられる。曇鸞大師は、十念を阿弥陀仏の総相もしくは別相を十たび憶念すること(観の意も含む)、また、阿弥陀仏の名号を十遍称えることと解釈した。善導(ぜんどう)大師、法然上人は十念を十声の称名念仏の意に限定したが、これは『観経』の下下品に、「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」とあって、十念の称名念仏によって阿弥陀仏の浄土に往生できると説かれているのを根拠としたからである。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

十念

十声の念仏のこと。 『大経』第十八願文に出る「乃至十念」(大経p.18)の念は、もと心念の意とみられるが、曇鸞は『論註』(信巻引文p.301)において、「十念」を阿弥陀仏の総相もしくは別相を観察、憶念し相続すること、また阿弥陀仏の名号を称えることと解釈した。 善導は『礼讃』に第十八願の意を述べて、

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん。下十声に至るまで、もし生れずは、正覚を取らじ。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。(行巻引文・p.167)

と示し、十念を十声の称名の意とした。 これは『観経』下品下生に、

十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。(観経p.116)

とあるのをうけて、十念の称名念仏によって阿弥陀仏の浄土に往生できると示したものである。 法然はこの善導の釈をうけて、念と称の同異について

念・声は是一なり。(選択集p.1212)

と示し、親鸞も『唯信鈔文意』に、

弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。(唯文p.717)

と述べている。 →称名 →乃至 (浄土真宗辞典)

蓮如さんは『御一代記聞書』で、

おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なり とこころうれば、口も心もひとつなり。 (一代記 P.1232)

と、口と心の表裡で示されている。

圭峰宗密は、『普賢行願品鈔』に、所念の仏の種類に従って、一、称名念仏、二、観像念仏、三、観相念仏、四、実相念仏の四種念仏を説き、次第に浅深があるとして「最後為妙」と断じている。すなわち称名は最も浅劣な念仏であり、実相念仏は最も深妙であるというのである。このような理観を中心とし、称名を浅劣な方便加行とみるのは聖道門の念仏観に共通していた。