「常楽我浄」の版間の差分
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2017年10月28日 (土) 12:32時点における版
じょうらくがじょう
常住にして移り変わりがなく、安らかで楽しみが充ち足り、自在で他に縛られず、煩悩のけがれがないこと。涅槃にそなわる四種の徳。→四徳(しとく) (真巻 P.354、化巻 P.408)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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常楽我浄(じょうらくがじょう、梵: nitya-sukha-ātma-śubha[1])とは、仏教とりわけ大乗仏教で、仏及び涅槃の境涯を表した語である。大乗仏教においては四徳、または四波羅蜜といわれる[1]。主に『大般涅槃経』に説かれるが、『勝鬘経』など多くの大乗経典にも登場する語である。
初期仏教
仏教において否定されるべき4種の見解をさしていた[1]。
と見なしていた[2]。これを四顛倒(してんどう、さかさまな見方)という[1]。
釈迦は成道した直後にまずこの四顛倒をただし、この世は無常・苦・無我・不浄であると説いた。これが諸行無常・一切皆苦・諸法無我などという仏教用語の基となっている。
大乗仏教
大乗仏教においては、『大般涅槃経』や『勝鬘経』では、如来が常住であり、涅槃は最高の楽であることを強調し、四不顛倒(しふてんどう。無常、苦、無我、不浄)をさらに超える存在として、常、楽、我、浄を究極のものと見なした[1]。これを四波羅蜜あるいは四徳と称する[1]。 『涅槃経』では、如来は入滅してもこの世に常住し、涅槃こそ真の楽であり、人間我を超えた所に如来我(仏性)があり、浄らかであると説いた、とされている。
- 常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
- 楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
- 我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
- 浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である
これが常楽我浄である。
日蓮の解釈
日蓮は、『法華経』寿量品にある経文、「常住此説法」を「常」、「我此土安穏」を「楽」、「自我得仏来」を「我」、また薬王品の「如清涼地」を「浄」とする。また日蓮は、
上行は我を表し、無辺行は常を表し、浄行は浄を表し、安立行は楽を表す。有る時には一人に此の四義を具す。二死の表に出づるを上行と名づけ、断常の際を踰(こ)ゆるを無辺行と称し、五住の垢累を超ゆる故に浄行と名づけ、道樹にして円(まど)らかなり故に安立行と曰うなり。
— 『御義口伝』
と、この涅槃の四徳を『法華経』に出てくる地涌の四菩薩に配当している。
脚注
参考文献
- 中村元 他『岩波仏教辞典』岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8。
関連項目