「第十七願」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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とされ、{{DotUL|諸仏}}称揚之願、{{DotUL|諸仏}}称名之願、{{DotUL|諸仏}}咨嗟之願、往相回向之願、選択称名之願の五願名を挙げる。前の三願は諸師の命名であり第十七願の文に親しい。ところが御開山は、第十七願は、[[第十八願]]の「[[乃至十念]]」は、阿弥陀如来の大悲の願から出でて、諸仏の讃嘆を通して衆生に〔なんまんだぶ〕を称えさせる願とみられたのであった。その意を往相回向之願、選択称名之願といわれたのである。また『浄土文類聚鈔』には、往相正業之願([[浄土文類聚鈔#no3|浄文p478]])を挙げておられ「本願名号[[正定業]]」の[[正定業]]の念仏成仏の[[業因]]の法をあらわす願とされた。<br /> | とされ、{{DotUL|諸仏}}称揚之願、{{DotUL|諸仏}}称名之願、{{DotUL|諸仏}}咨嗟之願、往相回向之願、選択称名之願の五願名を挙げる。前の三願は諸師の命名であり第十七願の文に親しい。ところが御開山は、第十七願は、[[第十八願]]の「[[乃至十念]]」は、阿弥陀如来の大悲の願から出でて、諸仏の讃嘆を通して衆生に〔なんまんだぶ〕を称えさせる願とみられたのであった。その意を往相回向之願、選択称名之願といわれたのである。また『浄土文類聚鈔』には、往相正業之願([[浄土文類聚鈔#no3|浄文p478]])を挙げておられ「本願名号[[正定業]]」の[[正定業]]の念仏成仏の[[業因]]の法をあらわす願とされた。<br /> | ||
− | そもそも第十七願は、諸仏に「咨嗟称我名」と阿弥陀仏の本願を讃嘆させる願であって衆生に誓われた願ではない。菩薩や声聞、縁覚ではなく諸仏に讃嘆せしめようという願であり、ましてや凡夫には全く無縁の願であった。しかし御開山は、衆生の生因の願である「[[第十八願]]」の[[乃至十念]] | + | そもそも第十七願は、諸仏に「咨嗟称我名」と阿弥陀仏の本願を讃嘆させる願であって衆生に誓われた願ではない。菩薩や声聞、縁覚ではなく諸仏に讃嘆せしめようという願であり、ましてや凡夫には全く無縁の願であった。しかし御開山は、衆生の生因の願である「[[第十八願]]」の[[乃至十念]]は諸仏の行と等しい行であるとされ、諸仏称名の願は浄土真実の行、選択本願の行の往生成仏の「[[大行]]」とされたのであった。諸仏の修する行と等しいから「[[大行]]」なのであった。→[[摩訶止観]] →[[大多勝]] |
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2018年8月1日 (水) 17:25時点における版
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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『行巻』には、諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行と標挙して、
- 然斯行者 出於大悲願。
- しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり (行巻 P.141)、
とされ、諸仏称揚之願、諸仏称名之願、諸仏咨嗟之願、往相回向之願、選択称名之願の五願名を挙げる。前の三願は諸師の命名であり第十七願の文に親しい。ところが御開山は、第十七願は、第十八願の「乃至十念」は、阿弥陀如来の大悲の願から出でて、諸仏の讃嘆を通して衆生に〔なんまんだぶ〕を称えさせる願とみられたのであった。その意を往相回向之願、選択称名之願といわれたのである。また『浄土文類聚鈔』には、往相正業之願(浄文p478)を挙げておられ「本願名号正定業」の正定業の念仏成仏の業因の法をあらわす願とされた。
そもそも第十七願は、諸仏に「咨嗟称我名」と阿弥陀仏の本願を讃嘆させる願であって衆生に誓われた願ではない。菩薩や声聞、縁覚ではなく諸仏に讃嘆せしめようという願であり、ましてや凡夫には全く無縁の願であった。しかし御開山は、衆生の生因の願である「第十八願」の乃至十念は諸仏の行と等しい行であるとされ、諸仏称名の願は浄土真実の行、選択本願の行の往生成仏の「大行」とされたのであった。諸仏の修する行と等しいから「大行」なのであった。→摩訶止観 →大多勝
- 原文:
- 訓点:
設我得レ仏 十方世界 無量諸仏 不三悉咨嗟 称二我名一者 不レ取二正覚一。
- 読下し:
たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
- 現代語:
わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
- 意 訳:
たとい私が仏陀となり得たとしても、十方の世界にまします無数の仏陀たちが、私がこれから完成する南無阿弥陀仏という名号のもつ無量の徳をほめたたえて、十方の一切の衆生に聞かせることができないようならば、仏になりません。