「西方指南抄の解説」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
3行目: | 3行目: | ||
真宗高田派で伝時されてきた、御開山聖人筆(国宝)の法語集。上・中・下の三巻に分かれ、各巻をそれぞれ本と末にわけてあるので全六巻ともいえる。御開山の師である法然聖人の法語・消息・問答・行状記などを、収集した書物である。奥書に依って康元元(1256)年~康元二(1257)年(御開山84~85歳)頃、蒐集されお手元にあった法然聖人に関する文献を編集し書写されたものである。<br /> | 真宗高田派で伝時されてきた、御開山聖人筆(国宝)の法語集。上・中・下の三巻に分かれ、各巻をそれぞれ本と末にわけてあるので全六巻ともいえる。御開山の師である法然聖人の法語・消息・問答・行状記などを、収集した書物である。奥書に依って康元元(1256)年~康元二(1257)年(御開山84~85歳)頃、蒐集されお手元にあった法然聖人に関する文献を編集し書写されたものである。<br /> | ||
御開山帰洛の一因として法然聖人に関する語録の蒐集という意もあったといわれる。当時の関東では法然聖人に関する文献の蒐集は困難であったから、その為に、なお六十の齢を越えて関東の門弟と別れて帰洛されたのであろうとされる。<br /> | 御開山帰洛の一因として法然聖人に関する語録の蒐集という意もあったといわれる。当時の関東では法然聖人に関する文献の蒐集は困難であったから、その為に、なお六十の齢を越えて関東の門弟と別れて帰洛されたのであろうとされる。<br /> | ||
− | + | 蓮如上人の信心の教化を主とする本願寺派・大谷派では、異流とする浄土宗との違いを強調する為に、法然聖人の言行録としての性格が強い『西方指南抄』を軽視する傾向がある。また浄土宗側では親鸞聖人の著であるので取り上げられることは少なかった。 | |
+ | しかし晩年の御開山が著され、御開山の思想のバックボーンである[[選択本願]]である[[可聞可称]]の〈なんまんだぶ〉を抜きにした領解は、御開山の示された仏の名号を体とする大無量寿経のご法義と違うものが出てくるかもである。 | ||
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ | なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ |
2018年9月23日 (日) 16:05時点における版
さいほう-しなんしょう
真宗高田派で伝時されてきた、御開山聖人筆(国宝)の法語集。上・中・下の三巻に分かれ、各巻をそれぞれ本と末にわけてあるので全六巻ともいえる。御開山の師である法然聖人の法語・消息・問答・行状記などを、収集した書物である。奥書に依って康元元(1256)年~康元二(1257)年(御開山84~85歳)頃、蒐集されお手元にあった法然聖人に関する文献を編集し書写されたものである。
御開山帰洛の一因として法然聖人に関する語録の蒐集という意もあったといわれる。当時の関東では法然聖人に関する文献の蒐集は困難であったから、その為に、なお六十の齢を越えて関東の門弟と別れて帰洛されたのであろうとされる。
蓮如上人の信心の教化を主とする本願寺派・大谷派では、異流とする浄土宗との違いを強調する為に、法然聖人の言行録としての性格が強い『西方指南抄』を軽視する傾向がある。また浄土宗側では親鸞聖人の著であるので取り上げられることは少なかった。
しかし晩年の御開山が著され、御開山の思想のバックボーンである選択本願である可聞可称の〈なんまんだぶ〉を抜きにした領解は、御開山の示された仏の名号を体とする大無量寿経のご法義と違うものが出てくるかもである。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ