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「果遂のちかひに帰してこそ」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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かすいのちかひにきしてこそ
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かすいのちかひにきしてこそ ([[浄土和讃#no66|浄土和讃 P.568]])
  
 
『浄土真宗聖典全書』p371。国宝本の左訓に、
 
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とある。御開山の意では、
 
とある。御開山の意では、
:すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。([[化巻本#P--413|化巻 P.413]])
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:すみやかに[[難思往生]]の心を離れて、[[難思議往生]]を遂げんと欲す。[[果遂の誓]]([[第二十願]])、まことに由あるかな。([[化巻本#P--413|化巻 P.413]])
と第十八願の選択の願海に入られてことを果遂とされるのであった。また、
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と[[第十八願]]の[[選択の願海]]に入られたことを[[果遂]]とされるのであった。また、
 
:すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。([[真巻#P--372|真巻 P.372]])
 
:すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。([[真巻#P--372|真巻 P.372]])
と、仮の浄土も大悲の顕現であるとされている意から窺えば、まさに如来の本意ではないのだが「弥陀の大悲深ければ」第二十願まで建てて、化土までは迎え取るというお心でもあろう。当然、これを聞いた上からは真門自力の称名を捨てて第十八願への本願力回向の救済に帰すべきであることはいうまでもない。([[浄土和讃#no66]])
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と、仮の浄土も大悲の顕現であるとされている意から窺えば、まさに如来の本意([[随自|随自意]])ではないのだが「弥陀の大悲深ければ」[[第二十願]]まで建てて、[[化土]]までは迎え取るというお心でもあろう。当然、これを聞いた上からは[[真門]]自力の称名を捨てて[[第十八願]]への[[本願力回向]]の救済に帰すべきであることはいうまでもない。
  
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:→[[浄土和讃#no66|浄土和讃]]
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:→[[六三法門]]
 
*→[[hwiki:三生果遂|『極楽浄土九品往生義』]]
 
*→[[hwiki:三生果遂|『極楽浄土九品往生義』]]
  
 
[[Category:追記]]
 
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2018年10月29日 (月) 09:47時点における版

かすいのちかひにきしてこそ (浄土和讃 P.568)

『浄土真宗聖典全書』p371。国宝本の左訓に、

ジリキノココロニテミヤウガウヲトナエタルオバツイニハタシトゲムトチカイタマフナリ
自力の心にて名号を称えたるをば、ついに果たし遂げむと誓いたまふなり。

とある。御開山の意では、

すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓第二十願)、まことに由あるかな。(化巻 P.413)

第十八願選択の願海に入られたことを果遂とされるのであった。また、

すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。(真巻 P.372)

と、仮の浄土も大悲の顕現であるとされている意から窺えば、まさに如来の本意(随自意)ではないのだが「弥陀の大悲深ければ」第二十願まで建てて、化土までは迎え取るというお心でもあろう。当然、これを聞いた上からは真門自力の称名を捨てて第十八願への本願力回向の救済に帰すべきであることはいうまでもない。

浄土和讃
六三法門