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「西方指南抄の解説」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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*あまり関心を持たれなかった『西方指南抄』だが、近年、親鸞『西方指南抄』現代語訳 単行本 – 2016/7/21 新井 俊一 (著)が発刊されている。
  
 
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2022年1月25日 (火) 16:20時点における版

さいほう-しなんしょう

 真宗高田派で伝時されてきた、御開山聖人筆(国宝)の法語集。上・中・下の三巻に分かれ、各巻をそれぞれ本と末にわけてあるので全六巻ともいえる。御開山の師である法然聖人の法語・消息・問答・行状記などを、収集した書物である。奥書に依って康元元(1256)年~康元二(1257)年(御開山84~85歳)頃、蒐集されお手元にあった法然聖人に関する文献を編集し書写されたものである。高田派の真仏上人宛とされる御消息(38)に、「銭二十貫文、たしかにたしかに給はり候ふ」とあるのは『西方指南抄』書写のお礼であると言われる。(鎌倉時代には米1石(10斗、100升)は銭1貫文であったと云われる。但し現代の米価との比較は無理であり、霊山勝海師は『念仏と流罪』中で人件費換算(月給30万)で二十貫文は四千万円弱であろうとされていた。)
 御開山帰洛の一因として法然聖人に関する語録の蒐集という意もあったといわれる。当時の関東では大蔵経などに接することは出来たのだが、法然聖人に関する文献の蒐集は困難であったから、その為に、なお六十の齢を越えて関東の門弟と別れて帰洛されたのであろうとされる。
蓮如上人の信心の教化を主とする本願寺派・大谷派では、念仏を強調する浄土宗(主として鎮西浄土宗)との違いを強調する為に、法然聖人の言行録としての性格が強い『西方指南抄』を軽視する傾向がある。また浄土宗側では親鸞聖人の著であるとのことで取り上げられることは少なかった。
 梯實圓和上は、その著『法然教学の研究』のはしがきで、「江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などをみずに法然教学を理解したために、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである。」とされておられた。例えば御開山の特長として語られる『歎異抄』の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の悪人正機の法語も醍醐本『三心料簡事』には「善人尚以往生況悪人乎事 (善人なお以て往生す、いわんや悪人をやのこと)」とあり法然聖人のご法語であった。また御開山の晩年の御消息を拝見しても法然聖人を語られることが多く、『歎異抄』では、関東から訪ねてきた門弟の問いに答えて「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然聖人)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」と断言されておられる。たしかに御開山の思想は難解ではあるが、その思想の基底を『西方指南抄』等の法然聖人のご法語を窺うことにより、いささかでも御開山の思想が領解できるのではと思ふ。

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  • あまり関心を持たれなかった『西方指南抄』だが、近年、親鸞『西方指南抄』現代語訳 単行本 – 2016/7/21 新井 俊一 (著)が発刊されている。
西方指南抄
→『法然聖人伝記
→『三部経大意
三心料簡および御法語の訓読

参照WEB版浄土宗大辞典の「西方指南抄」の項目