「彼此三業不相捨離」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | :一には親縁を明かす。 衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。 | + | :一には親縁を明かす。 衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。 身につねに仏を[[礼敬]]すれば、仏すなはちこれを見たまふ。 心につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。 衆生仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。 彼此の三業あひ捨離せず(彼此三業不相捨離)。 ゆゑに親縁と名づく。([[観経疏 定善義 (七祖)#P--436|定善義 P.436]]) |
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衆生が口で<kana>仏名(ぶつみょう)</kana>を<kana>称(とな)</kana>え、身で仏を<kana>礼拝(らいはい)</kana>し、<kana>意(こころ)</kana>で仏を念ずるとき、これらを仏は聞き、見、知って衆生と仏とは互いに<kana>憶念(おくねん)</kana>し合うという密接不離の関係にあること。→[[三縁]]<br /> | 衆生が口で<kana>仏名(ぶつみょう)</kana>を<kana>称(とな)</kana>え、身で仏を<kana>礼拝(らいはい)</kana>し、<kana>意(こころ)</kana>で仏を念ずるとき、これらを仏は聞き、見、知って衆生と仏とは互いに<kana>憶念(おくねん)</kana>し合うという密接不離の関係にあること。→[[三縁]]<br /> | ||
− | 江戸時代の'''[[三業惑乱]]'''という論争によって、他力義を学問として究極的に追及した結果、衆生の側の[[身口意|身・口・意]]の宗教的行業を否定しすぎたのである。これによって近代の[[法義]] | + | 江戸時代の'''[[三業惑乱]]'''という論争によって、他力義を学問として究極的に追及した結果、衆生の側の[[身口意|身・口・意]]の宗教的行業を否定しすぎたのである。これによって近代の[[法義]]は衆生の上で動的に躍動する、なんまんだぶを称える「[[大行]]」である行為を抑制してきたのだとも思ふ。なんまんだぶを称えることは阿弥陀如来が[[往相]]を[[回向]]したまふ'''[[大行]]'''なのである。 |
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2022年8月21日 (日) 00:43時点における版
ひし-さんごう-ふそうしゃり 彼此三業不相捨離
『観経疏』定善義の親縁釈にある語。
衆生が口で
江戸時代の三業惑乱という論争によって、他力義を学問として究極的に追及した結果、衆生の側の身・口・意の宗教的行業を否定しすぎたのである。これによって近代の法義は衆生の上で動的に躍動する、なんまんだぶを称える「大行」である行為を抑制してきたのだとも思ふ。なんまんだぶを称えることは阿弥陀如来が往相を回向したまふ大行なのである。
- つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
- 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。 (行巻 P.141)
深川倫雄和上は、全分他力を説かれておられたが、この親縁釈を、
- 称えてみぃや聞いてござるぞ、拝んでみぃや見てござる、思うてみぃや知ってござる。
と仰っていたものだった。ありがたいこっちゃ。なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ