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「不善の三業は…名づく」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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ふぜんのさんごうは…なづく
 
ふぜんのさんごうは…なづく
  
 通常は「不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。またもし善の三業を起こさば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。内外明暗を簡ず、みなすべからく真実なるべし。ゆえに至上心と名づく」と読む。
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 通常は「不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。またもし善の三業を起こさば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。内外明暗を簡ず、みなすべからく真実なるべし。ゆえに至誠心と名づく」([[観経疏 散善義 (七祖)#P--456|散善義 P.456]]) と読む。
  
 
 親鸞聖人は如来回向の義をあらわすために「須」の字を「べし」ではなく「もちゐ」と読まれた。([[信巻本#P--217|信巻 P.217]])
 
 親鸞聖人は如来回向の義をあらわすために「須」の字を「べし」ではなく「もちゐ」と読まれた。([[信巻本#P--217|信巻 P.217]])
 
 
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;善導大師の訓
 
 
:不善三業 必須真実心中捨。
 
:不善三業 必須真実心中捨。
 
::不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。
 
::不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。
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御開山は、至誠心を法蔵菩薩の所修の至誠心であると見られて敬語で読まれている。
 
御開山は、至誠心を法蔵菩薩の所修の至誠心であると見られて敬語で読まれている。
  
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:→[[不善の…捨つべし]]
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2024年7月5日 (金) 10:07時点における版

ふぜんのさんごうは…なづく

 通常は「不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。またもし善の三業を起こさば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。内外明暗を簡ず、みなすべからく真実なるべし。ゆえに至誠心と名づく」(散善義 P.456) と読む。

 親鸞聖人は如来回向の義をあらわすために「須」の字を「べし」ではなく「もちゐ」と読まれた。(信巻 P.217)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

不善三業 必須真実心中捨。
不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。
又若起善三業者 必須真実心中作。
またもし善の三業を起こさば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。
不簡内外明闇 皆須真実。故名至誠心。
内外明暗を簡ず、みなすべからく真実なるべし。ゆえに至上心と名づく。
御開山の訓
不善三業 必須真実心中捨。
不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ
又若起善三業者 必須真実心中作 不簡内外明闇 皆須真実 故名至誠心。
またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。

御開山は、至誠心を法蔵菩薩の所修の至誠心であると見られて敬語で読まれている。

不善の…捨つべし
『教行証文類』における『観経疏』三心釈の分引