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「三法印」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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法印とは仏教の旗印の意で、仏教の根本真理を三つにまとめたもの。
 
法印とは仏教の旗印の意で、仏教の根本真理を三つにまとめたもの。
諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三。これに一切皆苦(一切行苦)を加えたものを'''[[四法印]]'''と呼ぶ。
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<kana>諸行無常(しょぎょう-むじょう)</kana>・<kana>諸法無我(しょほう-むが)</kana>・<kana>涅槃寂静(ねはん-じゃくじょう)</kana>の三。これに<kana>一切皆苦(いっさい-かいく)</kana>(一切行苦)を加えたものを'''[[四法印]]'''と呼ぶ。
:'''諸行無常'''とは、因縁によって作られたもの(有為法)は常に変化してとどまることがないということ。
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:'''諸行無常'''とは、因縁によって作られたもの([[有為|有為法]])は常に変化してとどまることがないということ。
:'''諸法無我'''とは、すべてのもの(有為法・無為法)は永遠不変の実体(我)ではない。すべてのものに永遠不変の実体は存在しないということ。
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:'''諸法無我'''とは、すべてのもの([[有為|有為法]]・[[無為|無為法]])は永遠不変の実体(我)ではない。すべてのものに永遠不変の実体は存在しないということ。
:'''涅槃寂静'''とは、煩悩の火が吹き消された状態(涅槃)究極の安穏(寂静)であるということ。
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:'''涅槃寂静'''とは、[[煩悩]]の火が吹き消された状態([[涅槃]])究極の[[安穏]]([[寂静]])であるということ。
 
:'''一切皆苦'''とは、あらゆる存在はすべて苦しみであるということ。→[[無我]] (浄土真宗辞典)
 
:'''一切皆苦'''とは、あらゆる存在はすべて苦しみであるということ。→[[無我]] (浄土真宗辞典)
 
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:277 、「一切の形成されたものは無常である」('''諸行無常''')と明らかな知慧をもって観(み)るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
 
:277 、「一切の形成されたものは無常である」('''諸行無常''')と明らかな知慧をもって観(み)るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
 
:278 、「一切の形成されたものは苦しみである」('''一切皆苦''')と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
 
:278 、「一切の形成されたものは苦しみである」('''一切皆苦''')と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
:279 、「一切の事物は我ならざるものである」('''諸法非我''')と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。  
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:279 、「一切の事物は我ならざるものである」('''諸法非我''')と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。 (岩波『真理のことば』p.49)
 
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と、涅槃寂静以外の三を説く。諸法無我を諸法非我としているのでより古い形態であろう。無我とは空思想によって我といふ実体は無いといふ意味だが、原義は非我であり、あらゆる存在は我に非ずといふ意である。
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と、[[涅槃寂静]]以外の三を説く。諸法無我を諸法非我としているのでより古い形態であろう。無我とは空思想によって我といふ実体は無いといふ意味だが、原義は非我であり、あらゆる存在は我に非ずといふ意である。
  
 
#諸行無常印(梵: anityāṃ sarvasaṃskārāṃ)「すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である」
 
#諸行無常印(梵: anityāṃ sarvasaṃskārāṃ)「すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である」

2024年10月29日 (火) 10:36時点における最新版

さんぽういん

三法印 (四法印)

法印とは仏教の旗印の意で、仏教の根本真理を三つにまとめたもの。 諸行無常(しょぎょう-むじょう)諸法無我(しょほう-むが)涅槃寂静(ねはん-じゃくじょう)の三。これに一切皆苦(いっさい-かいく)(一切行苦)を加えたものを四法印と呼ぶ。

諸行無常とは、因縁によって作られたもの(有為法)は常に変化してとどまることがないということ。
諸法無我とは、すべてのもの(有為法無為法)は永遠不変の実体(我)ではない。すべてのものに永遠不変の実体は存在しないということ。
涅槃寂静とは、煩悩の火が吹き消された状態(涅槃)究極の安穏寂静)であるということ。
一切皆苦とは、あらゆる存在はすべて苦しみであるということ。→無我 (浄土真宗辞典)

パーリの『ダンマパタ』には、

277 、「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観(み)るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278 、「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279 、「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。 (岩波『真理のことば』p.49)

と、涅槃寂静以外の三を説く。諸法無我を諸法非我としているのでより古い形態であろう。無我とは空思想によって我といふ実体は無いといふ意味だが、原義は非我であり、あらゆる存在は我に非ずといふ意である。

  1. 諸行無常印(梵: anityāṃ sarvasaṃskārāṃ)「すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である」
  2. 諸法無我印(梵: sarvadharmā anātmānaḥ)「すべてのものごと(法)は、自己ならざるものである」
  3. 涅槃寂静印(梵: śāntaṃ nirvāṇaṃ)「ニルヴァーナは、安らぎである」


参照WEB版浄土宗大辞典の「四法印」の項目

四諦