罪障功徳の体となる
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ざいしょうくどくのたいとなる
体は本体。罪障がそのまま功徳になる。(高僧 P.585)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 罪障功徳の体となる
- こほりとみづのごとくにて
- こほりおほきにみづおほし
- さはりおほきに徳おほし (高僧 P.585)
この氷と水の譬喩は「行巻」一乗海釈で、真実の一乗は「誓願一仏乗」であると釈されたから、「海」の意味を譬喩で釈された。
- 『経』に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。(行巻 P.197)
とされておられる。この語は『往生要集』の、
- 三には、念ずべし、「いま、わが惑心に具足せる八万四千の塵労門と、かの弥陀仏の具足したまへる八万四千の波羅蜜門とは、本来空寂にして、一体無礙なり。 貪欲はすなはちこれ道なり。 恚・痴またかくのごとし。 水と氷との、性の異なる処にあらざるがごとし。 ゆゑに経にのたまはく、〈煩悩・菩提は体無二なり。 生死・涅槃は異処にあらず〉と。
- われいま、いまだ智火の分あらざるがゆゑに、煩悩の氷を解きて功徳の水となすことあたはず。 (要集 P.1017)
の文によって、智火(智慧の火)の無きわれらは、阿弥陀仏の「誓願一仏乗」以外には、大乗仏教の「煩悩即菩提」、「生死即涅槃」である仏陀のさとり(正覚)を獲得することは出来ないのであった。それが罪障功徳の体となるという言葉の意味である。