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唯善

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2021年12月2日 (木) 23:24時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

ゆいぜん

ゆいぜん 唯善

 (1266-1317) 覚信尼と小野宮禅念の子。親鸞の孫で、覚恵の異父弟。大納言阿闍梨弘雅と号した。はじめ真言を学び、修験道も修めたが、のちに常陸国河和田の唯円のもとで学び真宗に帰依した。その後、覚恵に招かれて京都大谷に住したが、大谷廟堂の留守識をめぐり覚恵、覚如父子と争い、延慶2年 (1309) に敗退した。その際、ひそかに親鸞の影像と遺骨を奪取して、相模国鎌倉 (現在の神奈川県鎌倉市) に逐電し、西光院 (後の常敬寺) を開いた。(浄土真宗辞典)

真宗大谷派では、具体的存在な御開山親鸞聖人の記憶として、廟堂としての存在の意味を説くのだが、左巻きの大谷派の坊さんは莫迦だから意味が判らんのであろう(笑

常楽台主老衲一期記#廿歳

如此及厳密之御沙汰之間、唯公没落関東之刻、奉取御影・御骨、奉安置鎌倉常葉。田舎人々群集彼所{云々}。

このごとき、厳密の御沙汰に及ぶの間、唯公の関東へ没し落ちるとき、御影・御骨を取りたてまつりて、鎌倉の常葉に安置したてまつる。田舎の人々かのところに群集すと、云々。

御留守職之事、可為何様哉、如此落居之上者、可移住歟、如何之由被尋使節之処、吾等無左右難計申之間、以門徒一同之衆儀可有沙汰之由返答。仍御影堂御留主性善也。

御留守職の事、いかになすべきや、このごとき落居のうへは、移住すべきか、いかなるごときのゆえか使節に尋ぬるところ、われらそうなくはかり難しと申すあいだ、門徒一同の衆儀(義)をもって沙汰あるの由返答せり。仍御影堂御留主性善也。