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唯信仏語

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2023年6月3日 (土) 22:01時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

ゆいしん-ぶつご

 ただ仏語のみが真実であり、その仏語のみを信じるということ。→
善導大師の『観経疏』深心釈下にある語である。浄土真宗では、(すくわれる者)と(すくいの法)の「二種深信」を強調して説くのだが、御開山はより広く深信を考察して又の字により深心釈を七つに開いて示された。

「唯信仏語」とは、この「七深信」の第五深信に、

又深信者 仰願一切行者等 一心唯信仏語 不顧身命 決定依行 仏遣捨者即捨 仏遣行者即行。仏遣去処即去。
是名随順仏教 随順仏意 是名随順仏願。是名真仏弟子。
また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。 これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。 これを真の仏弟子と名づく。 (散善義 P.457),(信巻 P.218で引文)

と、ただ仏語のみを信ずる者を真の仏弟子であるとする。
『愚禿鈔』には、

第五の「唯信仏語」について、三遣三随順三是名あり。
 三遣とは、

一には、「仏の捨て()めたまふをば、すなはち捨つ」と。
二には、「仏の行ぜ()めたまふをば、すなはち行ず」と。
三には、「仏の去ら()めたまふ処をば、すなはち去る」となり。

 三随順とは、

一には、「是を仏教に随順すと名づく」と。
二には、「仏意に随順す」と。
三には、「是を仏願に随順すと名づく」となり。

 三是名とは、

一には、「是を真仏弟子と名づく」となり。
 上の是名とこれと合して三是名なり。(愚禿下 P.522)

と、雑行雑修を捨てて、仏の選択された〔なんまんだぶ〕を行じ、異学異解いの人と交わるなかれと、浄土真宗の行信を示しておられた。なお第五の右傍に「利他信心」と註記がある。

インクルード ノート:第五

「唯信仏語」についての、三遣・三随順 (愚禿下 P.522)

また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、

仏の捨て遣(し)めたまふをばすなはち捨て、
(雑行雑修を捨てて)
仏の行ぜ遣(し)めたまふをばすなはち行じ、
(正行(念仏)を行じ)
仏の去ら遣(し)めたまふ処をばすなはち去る。
(異学異解雑縁乱動のところを去れ)
これを仏教に随順し、
(釈尊の教え[仏教]に随順し)
仏意に随順すと名づけ、
(諸仏の意[仏意]に随順と名づけ)
これを仏願に随順すと名づく。
(阿弥陀仏の願[本願]に随順すると名づける。)
これを真の仏弟子と名づく。
(このような者を真の仏弟子と名づけるのである)

と、釈尊の教え、諸仏の意(おこころ)であり、阿弥陀仏の本願に随順することであるとされておられた。
また、この「唯信」を『唯信抄文意』では、

「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり、虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。

と、「信」とは疑いの無い心であり、利他である本願を憑んで自力をはなれたことを「唯信」といわれている。本願力回向の「信」とは疑いの無いことをいうのであり、疑わない心が私に有るという不疑心ではないのであった。→「疑蓋無雑

真仏弟子
七深信
第五