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尊号真像銘文(建長本)

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2023年7月10日 (月) 16:43時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

尊号真像銘文(建長本)
本書には広略2本があるが「注釈版」は二巻の広本であり、本書は一巻の略本と呼ばれる。この略本の奥書には「建長七歳(1255)乙卯六月二日」とあるので建長本という。
略本:(建長本 83歳)

「願生安楽国」といふは、世親菩薩、かの無碍光仏の願行を信じて安楽国に生れんと願ひたまへるなり。(『浄土真宗聖典全書』二 p.618下段)

広本:(正嘉本 86歳)

「願生安楽国」といふは、世親菩薩、かの無碍光仏を称念し信じて安楽国に生れんと願ひたまへるなり。 (尊号 P.652)

梯實圓和上は、
◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:を称念し

梯實圓和上の講録から。

 一般に『安心論題』等か見ますと信心は願行具足(がんぎょう-ぐそく)の名号を頂いたという風な言い方をします。願行具足論は宗祖は余り使わないのです。余りではなくて「願行」という言葉を一回だけ使われておられますが、次には(ただち)に止めてしまわれるのです。だからあの言葉はあまり親鸞聖人は使わない。『尊号真像銘文』の略本の「帰命尽十方無碍光如来」の釈の所に「無碍光仏の願行を信じて」(略本 618) という言葉が一ヶ所だけあるのです。しかし広本の時はそれはもう省略します。切ってしまいます。「願行を信ず」という願行という言葉を止めてしまうのです。この「阿弥陀仏の願行を信ずる」という形で宗祖は一回だけ使ったのだけれども、どうもそぐわないのでしょう。親鸞聖人の境地に合わなかったのでしょう。それで止めてしまうのです。何故に止められたのでしょうか?。一度使われて直に止めるというのは面白いです。だから「六字釈」を見たら願行門の六字釈は一切使わない。六字釈は二回ありますけれども願行具足という事を一回も言われない。だから宗祖は願行具足論というもので成仏の因を語るという事はなかった訳です。もっと根源的に如来の智慧と慈悲、如来の大智・大悲で仏道の正因を語るのです。これはやはり親鸞聖人の大乗仏教観というようなものが背景にあるのです。恐らく信心正因という事を言うのは菩提心正因というものを押さえている訳です。

といわれていた。

尊号真像銘文

第十八願の文

「大无量寿経言」といふは、四十八願をときたまへる経なり。「設我得仏」(大経*巻上)といふは、もしわれ仏になりたらむときといふ御ことばなり。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生といふなり。「至心信楽」といふは、「至心」は真実とまふすなり、真実とまふすは如来の御ちかひの真実なる を至心とまふすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆへなり。「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごゝろなくふかく信じてうたがはざれば、信楽とまふすなり。この「至心信楽」は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすゝめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこゝろにはあらず。「欲生我国」といふは、他力の至心信楽をもて、安楽浄土にむまれむとおもへとなり。「乃至十念」とまふすは、如来のちかひの名号をとなえむことをすゝめたまふに、徧数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。如来より御ちかひをたまはりぬ るには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべし。この真実信心をえむとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらゐにさだまるとみえたり。「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもしむまれずはといふみことなり。「不取正覚」は仏にならじとちかひたまへる御のりなり。この本願のやうは、『唯信抄』によくよくみえたり。「唯信」とまふすは、すなわちこの真実信楽をひとすぢにとるこゝろをまふすなり。「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」はたゞのぞくといふことばなり。五逆のつみびとをきらい謗 法のおもきとがをしらせむとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせむとなり。

其仏本願力 聞名欲往生の文

「其仏本願力」(大経*巻下)といふは、弥陀の本願力とまふすなり。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずとまふすなり。「欲往生」といふは、安楽浄刹にむまれむとおもへとなり。「皆悉到彼国」といふは、御ちかひのみなを信じてむまれむとおもふ人は、みなもれずかの浄土にいたるとまふす御ことなり。「自致不退 転」といふは、「自」はおのづからといふ、おのづからといふは衆生のはからいにあらず、しからしめて不退のくらゐにいたらしむとなり、自然といふことばなり。「致」といふは、いたるといふ、むねとすといふ、如来の本願の御名を信ずるひとは、自然に不退のくらゐにいたらしむるをむねとすとおもへとなり。「不退」といふは、仏にかならずなるべきみとさだまるくらゐなり。これすなわち正定聚のくらゐにいたるをむねとすとときたまへる御のりなり。

必得超絶去 往生安養国 横截五悪趣の文

「必得超絶去往生安養国」(大経*巻下)といふは、「必」はかならずといふ、かならずといふは自然といふこゝろなり。「得」はえたりといふ。「超」はこえてといふ。「絶」はたちはなるといふ。「去」はすつといふ、ゆくといふ、さるといふ。娑婆世界をたちすて、流転生死をこえはなれて、安養浄土に往生をうべしとなり。「安養」といふは、安楽浄土なり。「横截五悪趣悪趣自然閉」といふは、「横」はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるゆへに行者のはからいにあらず、五悪趣を自然にたちすて四生をはなるゝを横といふ、他力とまふすなり。これを横超といふなり。横は竪に対することばなり、超は迂に対することばなり。竪と迂とは自力聖道のこゝろなり、横と超は すなわち他力真宗の本意なり。「截」といふはきるといふ、五悪趣のきづなをよこさまにきるなり。「悪趣自然閉」といふは、願力に帰命すれば五道生死をとづるゆへに自然閉といふなり。「閉」はとづといふ。本願の業因にひかれて自然に安楽にむまるゝなり。「昇道无窮極」といふは、「昇」はのぼるといふ、のぼるといふは无上涅槃にいたる、これを昇といふなり。「道」は大涅槃道なり。「无窮極」といふはきわまりなしとなり。「易往而无人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土にむまるゝことうたがひなければ、ゆきやすきなり。「无人」といふ はひとなしといふ、ひとなしといふは真実信心の人はありがたきゆへに実報土にむまるゝ人まれなりとなり。しかれば、源信和尚は、「報土にむまるゝ人はおほからず、化土にむまるゝ人はすくなからず」(要集*巻下意)とのたまへり。「其国不逆違自然之所牽」といふは、「其国」はそのくにといふ。「不逆違」はさかさまならずといふ、たがはずとなり。「逆」はさかさまといふ、「違」はたがふといふなり。真実信をえたる人は、大願業力のゆへに、自然に浄土の業因たがはずして、かの業力にひかるゝゆへにゆきやすく、无上大涅槃にのぼるにきわまりなしとのたまへるなり。しかれば、「自然之所牽」とまふすなり。他力の至心信楽の業因の自然にひくなりとなり。

世尊我一心の文

「婆藪般豆菩薩論曰」といふは、「婆藪般豆」は天竺のことばなり、震旦には天親菩薩とまふす。またいまは世親菩薩とまふす。「論曰」は、世親菩薩、弥陀の本願を釈したまへる御ことを「論」といふなり、「曰」はこゝろをあらはすことばなり。この論おば『浄土論』といふ、また『往生論』といふなり。「世尊我一心」(浄土論)といふは、「世尊」は釈迦如来なり。「我」といふは世親菩薩のわがみとのたまへるなり。「一心」といふは、教主世尊のみことをふたごゝろなくうたがひなしとなり、すなわちこれまことの信心なり。「帰命尽十方无㝵光如 来」とまふすは、「帰命」は南无なり、帰命とまふすは如来の勅命にしたがひたてまつるなり。「尽十方无㝵光如来」とまふすはすなわち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界をつくしてことごとくみちたまへるなり。「无㝵」といふは、さわることなしとなり。衆生の煩悩悪業にさえられざるなり。「光如来」とまふすは阿弥陀仏なり。この如来はすなわち不可思議光仏とまふす。この如来は智慧の相なり、十方微塵刹土にみちたまへりとしるべしとなり。「願生安楽国」といふは、世親菩薩、かの无㝵光仏の願行を信じて安楽国にむまれむとねがひたまへるなり。「我依修多羅真実功徳相」といふは、「我」は天親論主のわれとなのりたまへる御ことば なり。「依」はよるといふ、修多羅によるとなり。「修多羅」は天竺のことば、仏の経典をまふすなり。仏教に大乗あり、また小乗あり。みな修多羅とまふす。いま修多羅とまふすは大乗なり、小乗にはあらず。いまの三部の経典は大乗修多羅なり、この三部大乗によるとなり。「真実功徳相」といふ、誓願の尊号なり。「說願偈総持」といふは、本願のこゝろをあらはすことばを「偈」といふなり。「総持」といふは智慧なり、无㝵光の智を総持とまふすなり。「与仏教相応」といふは、この『論』のこゝろは、釈尊の教勅、弥陀の誓願にあひかなへりとなり。「観彼世界相勝過三界道」と いふは、かの安楽世界をみそなわすに、ほとりきわなきこと虚空のごとし、ひろくおほきなること虚空のごとしとなり。
「観仏本願力遇无空過者」(浄土論)といふは、如来の本願力をみそなわすに、願力を信ずるひとは、むなしくこゝにとゞまらずとなり。「能令速満足功徳大宝海」といふは、「能」はよしといふ、「令」はせしむといふ、「速」はすみやかにとしといふ。よく本願力を信楽するひとは、すみやかにとく功徳の大宝海を信者のそのみに満足せしむるなり。如来の功徳のきわなくひろくおほきなることを、大海のみづのみちみてるがごとしとたとへたてま つれるなり。

光明寺善導和尚真像銘文

光明寺善導和尚の銘にいはく、
「智栄」とまふすは、震旦の聖人なり。善導の別徳をほめたまふていはく、「善導は阿弥陀仏の化 身なり」とのたまへり。「称仏六字」といふは、南无阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなわち南无阿弥陀仏をとなふるは、ほめたてまつることばになるとなり。また「即懺悔」といふは、南无阿弥陀仏をとなふるは、すなわち无始よりこのかたの罪業を懺悔するになるとまふすなり。「即発願廻向」といふは、南无阿弥陀仏をとなふるは、すなわち安楽浄土に往生せむとおもふになるとなり。「一切善根荘厳浄土」といふは、阿弥陀の三字に一切善根をおさめたまへるゆへに、名号をとなふれば浄土を荘厳するになるとしるべしとなり。智栄禅師、善導をほめたまへるなり。

(六三六頁参照)

善導和尚の六字釈

善導和尚ののたまはく、
「言南无者」(玄義分)といふは、「南无」は、すなわち帰命とまふすことなり。帰命は、すなわち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひ、めしにかなふとまふすことばなり。このゆへに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願廻向之義」といふは、二尊のめしにしたがふて、安楽浄土にむまれむとねがふこゝろなりとのたまへるなり。「言阿弥陀仏者」といふは、「即是其行」とのたまへり。即是其行は、これすなわち法蔵菩薩の選択の本願な り。安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこゝろなり。「以斯義故」といふは、この義をもてのゆへにといえるこゝろなり。「必得往生」といふは、かならず往生をえしむといふなり。「必」はかならずといふ、かならずといふは、自然のこゝろをあらわす、自然ははじめてはからはずとなり。

摂生増上縁の文

又(観念*法門)曰、
「言摂生増上縁者」といふは、「摂生」は十方衆生を誓願におさめとりたまふとまふすこゝろなり。「如无量寿経四十八願中說」といふは、如来 の本願をときたまへるみことなりとしるべしとなり。「若我成仏」とまふすは、法蔵菩薩ちかひたまはく、もしわれ仏になりたらむときとなり。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生なり、すなわちわれらなり。「願生我国」といふは、安養浄刹にむまれむとねがへとなり。「称我名字」といふは、われ仏になれらむにわがなをとなへられむとなり。「下至十声」といふは、名字をとなへられむことしもとこゑせむものとなり。「下至」といふは、十声にあまれるもの、一念二念聞名のものを、往生にもらさずきらはぬことをあらはししめすとなり。「乗我願力」といふは、「乗」は のるべしといふ、また智なり。智といふは、願力にのせたまふとしるなり。願力にのせて安養浄刹にむまれしむるとなり。「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたるもの、もし本願の実報土にむまれずは、仏にならじとちかひたまへる御のりなり。「此即是願往生行人」といふは、これすなわち往生をねがふ人といふなり。「命欲終時」といふは、いのちおはらむとせむときといふ。「願力摂得往生」といふは、大願業力摂取して往生をえしむといへるこゝろなり。すでに尋常のとき信楽をえたる人なり、臨終のときはじめて信心決定して摂取にあづかるものにあらず。ひごろ、かの心光に摂護せられまいらせたる金剛心をえたる人なれば正定聚に住するゆへに、臨終のときにあらず。かねて尋常のときよ りつねに摂護してすてたまはざれば、摂得往生とまふすなり。このゆへに「摂生増上縁」となづくるなり。またまことに尋常のときより信なからむ人は、ひごろの称念の功によりて、最後臨終のときはじめて善知識のすゝめにあふて信心をえむとき、願力摂して往生をうるものもあるべしとなり。臨終の来迎をまつものは、かくのごとくなるべしと。

摂生増上縁の文

又(観念*法門)曰、
「言護念増上縁者」といふは、まことの信心をえたるひとを、このよにてつねにまもりたまふとまふすことなり。「但有専念阿弥陀仏衆生」といふは、ひとすぢにふたごゝろなく弥陀仏を念じたてまつるとまふすなり。「彼仏心光常照是人」といふは、「彼」はかのといふ。「仏心光」は无㝵光仏の御こゝろとまふすなり。「常照」はつねにてらすとまふす。つねにといふは、ときをきらはず、日をへだてず、ところをわかず、まことの信心ある人おばつねにてらしたまふとなり。てらすといふは、かの仏心光におさめとりたまふとなり。「仏心光」は、すなわち阿弥陀仏の御こゝろにおさめたまふとしるべし。「是人」は信心をえたる人なり。つねにまもりたまふとまふすは、天魔波旬にやぶられず、悪鬼・悪神にみだられず、摂護不捨したまふ ゆへなり。「摂護不捨」といふは、おさめまもりてすてずとなり。「総不論照摂余雑業行者」といふは、「総」はすべてといふ、みなといふ。すべて雑行雑修の人おばみなてらさず、おさめまもりたまはずとなり。てらしまもりたまはずとまふすは、摂取不捨の利益にあづからずとなり。本願の行者にあらざるゆへなりとしるべし。しかれば、摂護不捨と釈したまはず。「現生護念増上縁」といふは、このよにてまもりたまふとまふすみことなり。「増上縁」はすぐれたる強縁なりとなり。

源信和尚の銘文

首楞厳院源信和尚のたまはく、
「我亦在彼摂取之中」(要集*巻中)といふは、われまたかの摂取のなかにありとのたまへるなり。「煩悩障眼」といふは、われら煩悩にまなこさえらるとなり。「雖不能見」といふは、煩悩のまなこにて仏をみたてまつることあたはずといゑどもといふなり。「大悲无惓」といふは、大慈大悲の御めぐみ、もの うきことましまさずとまふすなり。「常照我身」といふは、「常」はつねにといふ、「照」は无㝵の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。つねにてらすといふは、つねにまもりたまふとなり。「我身」は、わがみを大慈大悲心ものうきことなく、つねにまもりたまふとおもへとなり。摂取不捨のこころをあらわしたまふ。「念仏衆生摂取不捨」の文を釈したまへるなり。

日本源空聖人真影

日本源空聖人の銘にいはく、四明山権律師劉官讚、
「普勧道俗念弥陀仏」といふは、「普勧」はあまね くすゝむとなり。「道俗」は、道にふたりあり俗にふたりあり。道のふたりは、一には僧、二には比丘尼なり。俗にふたりは、一には仏のみのりを信じ行ずる男なり、二には仏のみのりを信じ行ずる女なり。「念弥陀仏」とまふすは、尊号を称念するなり。「能念皆見化仏菩薩」とまふすは、「能念」はよく尊号を念ずといふ、よく念ずといふはふかく信ずるなり。「皆見」といふは、化仏・菩薩をみむとおもふ人はみなみたてまつるとなり。「化仏菩薩」とまふすは、弥陀の化仏、観音・勢至等の聖衆なり。「明知称名」とまふすは、あきらかにしりぬ、仏のみなをとなふれば「往生」すといふこ とを「要術」といふ。往生の要には如来のみなをとなふるにすぎたることなしとなり。「宜哉源空」とまふすは、「宜哉」はよしといふなり。「源空」は聖人の御ななり。「慕道化物」といふは、「慕道」は无上道をねがひしたふといふなり。「化物」といふは、衆生を利益すとまふすなり。「信珠在心」といふは、金剛の信心をめでたきたまにたとへたまふ。信心のたまをこゝろにえたる人は、生死のやみにまどはざるゆへに、「心照迷境」といふなり。心照迷境といふは、信心のたまをもて、愚痴のやみをはらひ、あきらかにてらすとなり。「疑雲永晴」といふは、「疑雲」は願力をうたがふこゝろくもにたとへたるなり。「永晴」といふは、うたがふこゝろのくもをながくはらしぬれば安楽浄土へかならずむまるるなり。无㝵光仏の摂取 不捨の心光をもて信心をえたるひとをつねにてらしたまふゆへに、「仏光円頂」といへり。仏光円頂といふは、仏心のひかりあきらかに信心のひとのいたゞきをつねにてらしたまふとほめたまへるなり。

黒谷源空聖人真像

日本源空聖人ののたまはく、『選択本願念仏集』にいはく、
「南无阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄刹の往生の正因は念仏を本とすとまふすみことなり。正因といふは、浄土へむまるゝたねとまふすなり。
又(選択集)曰、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかにとく生死をはなれむとおもへといふなり。「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・浄土の二門なり。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけとなり、しばらく聖道門をさしおくべしとなり。「選入浄土門」と いふは、「選入」はえらびていれとなり、よろづの善法の中にえらびて浄土門にいるべしとなり。「欲入浄土門」といふは、浄土門にいらむとおもはゞといふなり。「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行ふたつのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。「選応帰正行」といふは、えらびて正行に帰すべしとなり。「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せむとおもはゞ、正行・助業ふたつのなかに助業をさしおくべしとなり。「選応専正定」といふは、えらびて正定の業をふたごゝろなく修すべしとなり。「正定之業者 即是称仏名」といふは、正定の業因はすなわちこれ仏名を称するなり。正定の因といふは、かならず无上涅槃のさとりをひらくたねとまふすなり。「称名必得生依仏本願故」といふは、仏のみなを称するはかならず安養浄土に往生をうるなり、仏の本願によるがゆへなりとのたまへり。
又(選択集)曰、「当知生死之家」といふは、まさにしるべし生死のいゑといふなり。「以疑為所止」といふは、大願の不思議力をうたがふこゝろをもて、六道・四生・二十五有にとゞまるなり。いまにまよふとしるべしとなり。「涅槃之城」といふは、安養浄刹をまふすなり、これを涅槃のみやことはまふすなり。「以信為能入」といふは、真実の信心をえたる人のみ、本願の実報土によくいるとし るべしとなり。

法印聖覚和尚の銘文

法印聖覚和尚ののたまはく、
「夫根有利鈍者」といふは、それ衆生の根性に利鈍ありとなり。「利」といふはこゝろのときひとなり、「鈍」といふはこゝろのにぶきひとなり。「教有漸頓」といふは、衆生の根性にしたがふて仏教に漸頓ありとなり。「漸」はやうやく仏道を修して、三祇百大劫をへて仏になるなり。「頓」はこの娑婆世界にして、このみにてたちまちに仏になるとまふすなり。これすなわち仏心・真言・法華・華厳等のさとりをひらくなり。「機有奢促者」といふ は、機に奢促あり。「奢」はおそきこゝろなるものあり、「促」はときこゝろなるものあり。このゆへに「行有難易」といへり、行につきて難あり、易ありとなり。「難」は聖道門自力の行なり、「易」は浄土門他力の行なり。「当知聖道諸門漸教也」といふは、すなわち難行なり、また漸教なりとしるべしとなり。「浄土一宗者」といふは、頓教なり、また易行なりとしるべしとなり。「所謂真言止観之行」といふは、「真言」は密教なり、「止観」は法華なり。「獼猴情難学」といふは、われらがこゝろをさるのこゝろにたとへたるなり。さるのこゝろのごとくさだまらずとなり。このゆへに 真言・法華の行は、修しがたく行じがたしとなり。「三論法相之教牛羊眼易迷」といふは、われらがまなこをうし・ひつじのまなこにたとへて、三論・法相宗等の聖道自力の教にはまどふべしとのたまへるなり。「然至我宗者」といふは、聖覚和尚ののたまはく、「わが浄土宗は、弥陀の本願の実報土の正因として、十声称念すれば、无上菩提にいたるとおしへたまふ。善導和尚の御おしえには、三心を具すればかならず安楽にむまるとのたまへるなり」(唯信*鈔意)と、聖覚和尚ののたまへるなり。「雖非利智精進」といふは、智慧もなく精進のみにもあらず、鈍根懈怠のものも、専修専念の信心をえつれば往生すとこゝろうべしとなり。「然我大師聖人」といふは、聖覚和尚は、聖人をわが大師聖人とあおぎたのみたまふ御ことばな り。「為釈尊之使者弘念仏之一門」といふは、源空聖人は釈迦如来の御つかいとして念仏一門をひろめたまふとしるべしとなり。「為善導之再誕勧称名之一行」といふは、聖人は善導和尚の御身として称名の一行をすゝめたまふなりとしるべしとなり。「専修専念之行自此漸弘无間无余之勤」といふは、一向専修とまふすことはこれよりひろまるとしるべしとなり。「然則破戒罪根之輩加肩入往生之道」といふは、破戒・无戒の人、罪業ふかきもの、みな往生すとしるべしとなり。「下智浅才之類振臂赴浄土之門」といふは、無智・無才のものは浄土門におもむくべしとなり。「誠知 无明長夜之大灯炬也何悲智眼闇」といふは、まことにしりぬ、弥陀の誓願は无明長夜のおほきなるともしびなり。なむぞ智慧のまなこくらしとかなしまむやとおもへとなり。「生死大海之大船筏也豈煩業障重」といふは、弥陀の願力は生死大海のおほきなるふね・いかだなり。極悪深重のみなりともなげくべからずとのたまへるなり。「倩思教授恩徳実等弥陀悲願者」といふは、師主のおしえをおもふに、弥陀の悲願にひとしとなり。大師聖人のおしえの恩おもくふかきことをおもひしるべしとなり。「粉骨可報之摧身可謝之」といふは、大師聖人の御おしえの恩徳のおもきことをしりて、ほねをこにしても報ずべしとなり。身をくだきても恩をむくうべしとなり。よくよくこの和尚のこのおしえを御覧ずべしと。

正信偈の文

愚禿親鸞「正信偈」にいはく、

「本願名号正定業」といふは、選択本願の行なり。「至心信楽願為因」といふは、弥陀如来廻向の真実信心を阿耨菩提の因とすべしとなり。「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚のくらゐなり。このくらゐを竜樹菩薩は「即時入必定」(十住論巻*五易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は「入正定聚之数」(論註*巻上意)とおしへたまへり。これはすなわち弥勒のくらゐとひとしとなり。「証大涅槃」とまふすは、必至滅度の願成就のゆへにかならず大般涅槃をさとるとしるべし。「如来所以興出世」といふは、諸仏のよにいでたまふゆへとまふすみことなり。「唯說弥陀本願海」といふは、諸仏のよにいでたまふ御本懐は、ひとへに願海一乗の法をとかむとなり。しかれば、『大経』(巻上)には、「如来所以興出於世欲拯群萌恵以 真実之利」とときたまへり。「五濁悪時群生海応信如来如実言」といふは、よろづの衆生、如来のこのみことをふかく信受すべしとなり。「能発一念喜愛心」といふは、一念慶喜の真実信よく発すれば、かならず本願の実報土にむまるとしるべし。「不断煩悩得涅槃」といふは、煩悩具足せるわれら、无上大涅槃にいたるなりとしるべし。「凡聖逆謗斉廻入」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提、みな廻心して真実信心海に帰入しぬれば、衆水海にいりてひとつあぢわいとなるがごとしとなり。これを「如衆水入海一味」といふなり。「摂取心光常照護」といふは、 无㝵光仏の心光つねにてらしまもりたまふゆへに、无明のやみはれ、生死のながき夜すでにあかつきになりぬとしるべし。「已能雖破无明闇」といふはこのこゝろなり。信心をうればあかつきになりぬとしるべし。「貪愛瞋憎之雲霧常覆真実信心天」といふは、われらが貪愛・瞋憎をくも・きりにたとへたり、貪愛のくも瞋憎のきりつねに信心の天をおほえるなりとしるべし。「譬如日光覆雲霧雲霧之下明无闇」といふは、日月のくも・きりにおほはるれども、やみはれてくも・きりのしたあかきがごとく、貪愛・瞋憎のくも・きりに信心はおほはるれども、往生にさわりあるべからずとなり。「獲信見敬得大慶」といふは、この信心をえておほきによろこびうやまふひとといふなり。「即横超截五悪趣」といふは、信心をうれば すなわち横に五悪趣をきるなりとしるべしとなり。「横超」といふは、「横」は如来の願力、他力をまふすなり。「超」は生死の大海をやすくこえて无上大涅槃のみやこにいるなりと。信心を浄土宗の正意としるなり。このこゝろをえつれば、他力は義なきを義とすとなり。義といふは、行者のはからふこゝろなり。このゆへに自力といふなり。よくよくこゝろふべしと。


建長七歳乙卯六月二日
愚禿親鸞 八十三 書写之