生死即涅槃
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
しょうじ-そくねはん
生死がそのまま涅槃であるという意。生死とは迷いの果、涅槃とはさとりの果を表す。仏智、仏のさとりからみれば、かけ離れた世界である生死と涅槃であっても、その体性は一つであるということ。
仏のさとりに至れば、あらゆる差別の相を超えた絶対の境地にいたることから、このようにいう。なお、大乗仏教では煩悩即菩提と対にして用いられる場合が多い。
浄土真宗において生死即涅槃は、阿弥陀仏の浄土で得る証果であるが、信心を獲得する一念に当来の往生成仏が定まることから、信心にそなわる法徳としても説かれる。
これは獲信のところで難思議往生が確約されるということであって、現生において証果を部分的に得るということではない。
「正信偈」に、
- 惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。(行巻 P.206)
「高僧和讃」に、
- 往相の回向ととくことは
- 弥陀の方便ときいたり
- 悲願の信行えしむれば
- 生死すなはち涅槃なり (高僧 P.584)
等とある。(浄土真宗辞典)
- WikiPediaから転送
生死即涅槃(しょうじ そく ねはん)は、大乗仏教の概念の一つ。煩悩即菩提と対で語られる場合が多い。
概要
大乗仏教における空の観念から派生した概念である。生死即涅槃の即とはイコールと捉えられやすいが微妙にやや異なる。この場合の「即」とは、和融・不離・不二を意味する。
迷界(迷いの世界)にいる衆生から見ると、生死(生死=迷い)と涅槃には隔たりがある。しかしそれは煩悩に執着(しゅうじゃく)して迷っているからそのように思うだけで、悟界(覚りの世界)にいる仏の智慧の眼から見れば、この色(しき、物質世界)は不生不滅であり不増不減である。したがって、いまだ煩悩の海に泳いでいる衆生の生死そのものが別に厭うべきものではなく、また反対に涅槃を求める必要もない。
言いかえれば、生死を離れて涅槃はなく、涅槃を離れて生死もない。つまり煩悩即菩提と同じく、生死も涅槃もどちらも差別の相がなく、どちらも相即(あいそく)して対として成り立っている。したがってこれを而二不二(ににふに)といい、二つであってしかも二つではないとする。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。
関連項目