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第十八願

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2005年11月3日 (木) 06:30時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

 至心信楽(ししんしんぎょう)の願。(大経 P.18)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

古来「十念往生の願」と呼ばれきたが、十念という数に限定されるおそれがあるため浄土真宗ではこの呼称を使用しない。たとえ経典といえども文字に拘泥しない不依文依義の姿勢は宗祖御開山聖人以来の宗風である。このため断章取意の異義が生まれやすい(近年の同朋運動基幹運動の名を借りた弥勒的世直し思想)。

浄土教はこのような理想主義的運動論を支える理論になることはないのである。理想を求めながら、理想を断念した挫折の慙愧の中に、如来のそれでもお前を救うという一人称の「声」を聴くのが浄土門仏教である。摂取とはこのような状況をあらわし表現する言葉なのである。

「お前の立派な論理を捨てて、馬鹿になってなんまんだぶつしてみんか」の声が「至心信楽」である。なんまんだぶつはさとりを獲る「行」であるから称えると言う口業に限定ではない。身口意全てをあげての「行」である。摩訶止観でいわれる「大行」を越える「大行」がなんまんだぶつである。

しかし、ここで「大行」に相応しようと思い、身口意の三業を私がなさければならないと思い立った瞬間に浄土は「十万億」のかなたであることを実感するであろう。

なんまんだぶつを称えることは、浄土が私に対して顕現していることであり、

酔っ払ったので以後中断