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同居の土

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2015年12月24日 (木) 03:03時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

どうこのど

 凡聖(ぼんしょう)同居土(どうごど)のこと。 凡夫(ぼんぶ)と聖者が雑居する世界。 天台(てんだい)大師智顗(ちぎ)(538-597) は仏国土を凡聖同居土・方便(ほうべん)有余土(うよど)実報(じっぽう)無障碍土(むしょうげど)常寂光土(じょうじゃっこうど)の四土に分類し、極楽をこのうちもっとも低劣な凡聖同居土と論定した。 (要集 P.1109)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。


天台智顗の四種浄土説、→三身

 天台宗では、阿弥陀仏の浄土は凡夫と聖者が混在しているので「凡聖同居の浄土」であるとし、四種の浄土の中でもっとも低位の浄土であるといわれていた。この説の論破が善導大師の「是報非化論」であり「凡夫入報説」(*)であった。 法然聖人は天台宗の学僧であったから、この天台の論理に対するためには、善導大師の示された凡夫入報説によって浄土宗を立宗する必要があったと云われている。既存の仏教思想の枠内にいるかぎり念仏一行をもって凡夫が浄土へ往生する義をあらわせないとされたのである。この意をあらわされた勢観房源智の「浄土随聞記」を下記に追記した。
なお、これを受けられ継承発展されたのが、親鸞聖人の示される大悲が往還回向する往生即成仏の智慧の躍動する浄土であった。それは第十八願に『若不生者不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」と阿弥陀如来が誓われた生仏一如の真実の浄土であったのである。このような浄土は、まさに唯だ仏と仏のみが知見する浄土であって、天台の四種浄土説を越えているといわねばならない。御開山が、

安養浄土の荘厳は
 唯仏与仏の知見なり
 究竟せること虚空にして
 広大にして辺際なし

と、讃詠される所以である。 (高僧和讃)


『拾遺語燈録』浄土随聞記

又一時師語曰。

また一時、師(法然聖人)語りていわく。

我立淨土宗之元意 爲顯示凡夫往生報土也。

我、浄土宗を立てる元意は、凡夫、報土に往生することを顯示せんが為なり。

且如天台宗 雖許凡夫往生 其判淨土卑淺。

しばらく天台宗のごときは、凡夫往生を許すといえども、その判ずる浄土は卑淺なり。

如法相宗 其判淨土雖亦高深 不許凡夫往生。

法相宗のごときは、その浄土を判ずることまた高深なりといえども、凡夫往生を許さず。

凡諸宗所談 其趣雖異 總而論之 不許凡夫往生報土。

おおよそ諸宗の所談その趣、異なるといえども、すべてこれを論ずるに凡夫報土に往生することを許さず。

是故 我依善導釋義 建立宗門 以明凡夫生報土之義也。

このゆえに、我、善導の釋義に依って宗門を建立し、以って凡夫報土に生まるの義を明かすなり。

然人多誹謗云 勸進念佛往生 何必別開宗門 豈非爲勝他邪。

然るに人多く誹謗して云く、念仏往生を勧進するに、何ぞ必ず別して宗門を開かん、豈、勝他の為にあらずやと。

如此之人未知旨也。

此の如きの人は未だ旨を知らざる也。

若不別開宗門 何顯凡夫生報土之義乎。

若し別に宗門を開かずんば、何ぞ凡夫報土に生まる之義を顕さんや。

且夫人 問所言念佛往生 是依何敎何師者 既非天台・法相 又非三論・華嚴 不知以何答之。

且つそれ人、言わゆる念仏往生は是れ何れの教何れの師に依るやと問はば、既に天台・法相にあらず、又三論・華厳にあらず、知らず何を以てか之を答えん。

是故 依道綽・善導意 立淨土宗 全非爲勝他也。

是れ故に道綽・善導の意に依って浄土宗を立つ、全く勝他の為には非ずと也。

『拾遺語燈録』浄土随聞記。 同文が 『拾遺漢語灯録』にある。