回して
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
白道釈に、
- 言人行道上直向西者 即喩廻諸行業 直向西方也。
- 「人、道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。(信巻P.226)
の「もろもろの行業を回して」の<回>が第二版では、回転、回捨の意で、自力をひるがえす、となっている。これはこれでよいのだが、釈尊の発遣と弥陀の招喚以前に捨自帰他があるように誤解されやすい。
なお『観経疏』での「回して」の用例では全て回向の意味であり、三心釈の結文に「またこの三心はまた通じて定善の義を摂す、知るべし」(信巻 P.227) とあることから、白道釈の合喩の、
- 「もろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」(信巻P.226)
の「回して」は善導大師の当面の意ではもろもろの行業を回向して意味であろう。
このように、『観経』の三心は、念仏のみならず定善、散善とも組み合うので、法然聖人は「三心章」で、
- この三心は総じてこれをいへば、もろもろの行法に通ず。別してこれをいへば、往生の行にあり。いま通を挙げて別を摂す。意すなはちあまねし。(選択集 P.1249)
といわれていた。「通を挙げて別を摂す」とは諸行に通ずる三心を挙げて、しかも別して念仏の安心に収めるという意味で、仏願に順ずれば念仏の三心にあることをあらわそうとされたのであろう。
御開山は、白道釈の意を欲生釈で自釈し、
- まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。(信巻 P.244)
とされ、『愚禿鈔』下の回向発願心釈では、「回向発願心というは、二種あり」(愚禿下 P.531)と、自力と組み合った回向発願心と、本願の招喚に信順する如来から回向される回向発願心を区別されておられる。同じく『愚禿鈔』下での「白道四五寸」でも、
- 「白道四五寸」といふは、「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。(愚禿下P.537)
と、「白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり」の白路は自力少善の白路と示されておられる。
このように回向発願心釈に二義を見られるのは、法然聖人の『三心料簡および御法語』に示された「白道事」の解釈を忠実に受け継がれているということであろう。