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後世物語聞書

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2016年11月5日 (土) 18:21時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

 略して『後世物語』とも称される。作者については異説が多く、未詳であるが、隆寛律師の作であろうと伝えられている。

 冒頭に念仏往生に関する種々の疑問に対して、京都の東山に住むある聖人が答えるという成立の由来を述べ、続いて、以下の九つの問題について問答がなされている。

(1)悪人無知の者も念仏によって往生するということ。
(2)聖道門の教えと浄土門の念仏往生の教えとの優劣を論ずるよりも、みずからの能力に応じた念仏往生の道を選ぶことが肝要であること。
(3)念仏には必ず三心(至誠心・深心・回向発願心)を具するということの意味と、三心の意義を心得ても、念仏がなければ所詮がないということ。
(4)至誠心とは、他力をたのむ心がひとすじであるということ。
(5)深心とは二種深信のことで、本願を疑わないこと。
(6)回向発願心とは、往生決定のおもいに住することをいう。
(7)三心の意義のまとめ。
(8)阿弥陀仏をたのみて称える念仏に、自ずから三心を具するということ。
(9)ただ念仏するほかに三心はないということ。

 なお、親鸞聖人の消息に「よくよく『唯信鈔』・『後世物語』なんどを御覧あるべく候ふ」とあり、聖人がしばしば本書を関東の門弟たちに書き写して与え、読むことを勧められたことがうかがわれる。


後世物語聞書

   後世物語聞書


【1】 ちかごろ浄土宗の明師をたづねて、洛陽東山の辺にまします禅坊にまゐりてみれば、一京九重の念仏者、五畿七道後世者たち、おのおのまめやかに、衣はこころとともに染め、身は世とともにすてたるよとみゆるひとびとのかぎり、十四五人ばかりならび居て、いかにしてかこのたび往生ののぞみをとぐべきと、これをわれもわれもとおもひおもひにたづねまうししときしも、まゐりあひて、さいはひに日ごろの不審ことごとくあきらめたり。そのおもむきたちどころにしるして、ゐなかの在家無智のひとびとのためにくだすなり。よくよくこころをしづめて御覧ずべし。


【2】 あるひと問うていはく、かかるあさましき無智のものも、念仏すれば極楽に生ずとうけたまはりて、そののちひとすぢに念仏すれども、まことしくさもありぬべしともおもひさだめたることも候はぬをば、いかがつかまつるべき。
 師答へていはく、念仏往生はもとより破戒無智のもののためなり。もし智慧もひろく戒をもまつたくたもつ身ならば、いづれの教法なりとも修行して、生死をはなれ菩提を得べきなり。それがわが身にあたはねばこそ、いま念仏して往生をばねがへ。


【3】 またあるひと問うていはく、いみじきひとのためには余教を説き、いやしきひとのためには念仏をすすめたらば、聖道門の諸教はめでたく浄土門の一教は劣れるかと申せば、

 師答へていはく、たとひかれはふかくこれはあさく、かれはいみじくこれはいやしくとも、わが身の分にしたがひて流転の苦をまぬかれて、不退の位を得ては、さてこそあらめ。ふかきあさきを論じてなににかはせん。いはんや、かのいみじきひとびとのめでたき教法をさとりて仏に成るといふも、このあさましき身の念仏して往生すといふも、しばらくいりかどはまちまちなれども、おちつくところはひとつなり。善導ののたまはく、「八万四千の門〔あり〕。門々不同にしてまた別なるにあらず。別々の門はかへりておなじ」(法事讃・下 五四八)といへり。しかればすなはち、みなこれおなじく釈迦一仏の説な れば、いづれを勝れり、いづれを劣れりといふべからず。あやまりて『法華』の諸教に勝れたりといふは、五逆の達多、八歳の竜女が仏に成ると説くゆゑなり。この念仏もまたしかなり。諸教にきらはれ、諸仏にすてらるる悪人・女人、すみやかに浄土に往生して迷ひをひるがへし、さとりをひらくは、いはばまことにこれこそ諸教に勝れたりともいひつべけれ。まさに知るべし、震旦(中国)の曇鸞・道綽すら、なほ利智精進にたへざる身なればとて、顕密の法をなげすてて浄土をねがひ、日本の恵心(源信)・永観も、なほ愚鈍懈怠の身なればとて、事理の業因をすてて願力の念仏に帰したまひき。このごろかのひとびとに勝りて智慧もふかく、戒行もいみじからんひとは、いづれの法門に入りても生死を解脱せよかし。みな縁にしたがひてこころのひくかたなれば、よしあしとひとのことをば沙汰すべからず、ただわが身の行をはからふべきなり。


【4】 またあるひと問うていはく、念仏すとも三心をしらでは往生すべからずと候ふなるは、いかがし候ふべき。

 師のいはく、まことにしかなり。ただし故法然聖人の仰せごとありしは、「三心をしれりとも念仏せずはその詮なし、たとひ三心をしらずとも念仏だに 申さば、そらに三心は具足して極楽には生ずべし」と仰せられしを、まさしくうけたまはりしこと、このごろこころえあはすれば、まことにさもとおぼえたるなり。ただしおのおの存ぜられんところのここちをあらはしたまへ。それをききて三心にあたりあたらぬよしを分別せん。


【5】 あるひといはく、念仏すれどもこころに妄念をおこせば、外相はたふとくみえ内心はわろきゆゑに、虚仮の念仏となりて真実の念仏にあらずと申すこと、まことにとおぼえて、おもひしづめてこころをすまして申さんとすれども、おほかたわがこころのつやつやととのへがたく候ふをば、いかがつかまつるべき。

 師のいはく、そのここちすなはち自力にかかへられて他力をしらず、すでに至誠心のかけたりけるなり。くだんの、口に念仏をとなふれどもこころに妄念のとどまらねば、虚仮の念仏といひて、こころをすまして申すべしとすすめけるも、やがて至誠心かけたる虚仮の念仏者にてありけりときこえたり。そのこころに妄念をとどめて、口に名号をとなへて内外相応するを、虚仮はなれたる至誠心の念仏なりと申すらんは、この至誠心をしらぬものなり。凡夫 の真実にして行ずる念仏は、ひとへに自力にして弥陀の本願にたがへるこころなり。すでにみづからそのこころをきよむといふならば、聖道門のこころなり、浄土門のこころにあらず、難行道のこころにして易行道のこころにあらず。これをこころうべきやうは、いまの凡夫みづから煩悩を断ずることかたければ、妄念またとどめがたし。しかるを弥陀仏、これをかがみて、かねてかかる衆生のために、他力本願をたて、名号の不思議にて衆生の罪を除かんと誓ひたまへり。さればこそ他力ともなづけたれ。このことわりをこころえつれば、わがこころにてものうるさく妄念・妄想をとどめんともたしなまず、しづめがたきあしきこころ、乱れ散るこころをしづめんともたしなまず、こらしがたき観念・観法をこらさんともはげまず、ただ仏の名願を念ずれば本願かぎりあるゆゑに、貪瞋痴の煩悩をたたへたる身なれども、かならず往生すと信じたればこそ、こころやすけれ。さればこそ易行道とはなづけたれ。もし身をいましめ、こころをととのへて修すべきならば、なんぞ行住坐臥を論ぜず、時処諸縁をきらはざれとすすめんや。またもしみづから身をととのへ、こころをすましおほせてつとめば、かならずしも仏力をたのまずとも生死をはなれん。


【6】 またあるひとのいはく、念仏すれば声々に無量生死の罪消えて、ひかりに照らされ、こころも柔軟になると説かれたるとかや。しかるに念仏してとしひさしくなりゆけども、三毒煩悩もすこしも消えず、こころもいよいよわろくなる、善心日々にすすむこともなし。さるときには、仏の本願を疑ふにはあらねども、わが身のわろき心根にては、たやすく往生ほどの大事はとげがたくこそ候へ。

 師のいはく、このことひとごとになげく心根なり。まことに迷へるこころなり。これなんぞ浄土に生ぜんといふみちならんや。すべて罪滅すといふは、最後の一念にこそ身をすててかの土に往生するをいふなり。さればこそ浄土宗とは名づけたれ。もしこの身において罪消えば、さとりひらけなん。さとりひらけば、いはゆる聖道門の真言仏心天台華厳等の断惑証理門のこころなるべし。善導の御釈によりてこれをこころうるに、信心にふたつの釈あり。ひとつには、「ふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、煩悩具足し、善根薄少にして、つねに三界に流転して、曠劫よりこのかた出離の縁なしと信知すべし」とすすめて、つぎに、「弥陀の誓願の深重なるをもつて、かかる衆生をみ ちびきたまふと信知して、一念も疑ふこころなかれ」とすすめたまへり。このこころを得つれば、わがこころのわろきにつけても、弥陀の大悲のちかひこそ、あはれにめでたくたのもしけれと仰ぐべきなり。もとよりわが力にてまゐらばこそ、わがこころのわろからんによりて、疑ふおもひをおこさめ。ひとへに仏の御力にてすくひたまへば、なんの疑かあらんとこころうるを深心といふなり。よくよくこころうべし。


【7】 またあるひとのいはく、曠劫よりこのかた乃至今日まで、十悪・五逆・四重・謗法等のもろもろの罪をつくるゆゑに、三界に流転していまに生死の巣守たり。かかる身のわづかに念仏すれども、愛欲のなみとこしなへにおこりて善心をけがし、瞋恚のほむらしきりにもえて功徳を焼く。よきこころにて申す念仏は万が一なり。その余はみなけがれたる念仏なり。されば切にねがふといふとも、この念仏ものになるべしともおぼえず。ひとびともまたさるこころをなほさずはかなふまじと申すときに、げにもとおぼえて、迷ひ候ふをば、いかがし候ふべき。

 師のいはく、これはさきの信心をいまだこころえず。かるがゆゑに、おもひ わづらひてねがふこころもゆるになるといふは、回向発願心のかけたるなり。善導の御こころによるに、「釈迦のをしへにしたがひ、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじはるといふとも、さらにかへりみることなかれ」(散善義・意)といへり。まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされんや。他力の功徳、むしろ瞋恚のほむらに焼くべけんや。たとひ欲もおこりはらもたつとも、しづめがたくしのびがたくは、ただ仏たすけたまへとおもへば、かならず弥陀の大慈悲にてたすけたまふこと、本願力なるゆゑに摂取決定なり。摂取決定なるがゆゑに往生決定なりとおもひさだめて、いかなるひと来りていひさまたぐとも、すこしもかはらざるこころを金剛心といふ。しかるゆゑは如来に摂取せられたてまつればなり。これを回向発願心といふなり。これをよくよくこころうべし。


【8】 またあるひといはく、簡要をとりて三心の本意をうけたまはり候はん。

 師のいはく、まことにしかるべし。まづ一心一向なる、これ至誠心の大意なり。わが身の分をはからひて、自力をすてて他力につくこころのただひとすぢなるを真実心といふなり。他力をたのまぬこころを虚仮のこころといふな り。つぎに他力をたのみたるこころのふかくなりて、疑なきを信心の本意とす。いはゆる弥陀の本願は、すべてもとより罪悪の凡夫のためにして、聖人・賢人のためにあらずとこころえつれば、わが身のわろきにつけても、さらに疑ふおもひのなきを信心といふなり。つぎに本願他力の真実なるに入りぬる身なれば、往生決定なりとおもひさだめてねがひゐたるこころを回向発願心といふなり。


【9】 またあるひと申さく、念仏すれば、しらざれども三心はそらに具足せらるると候ふは、そのやうはいかに候ふやらん。

 師答へていはく、余行をすてて念仏をするは、阿弥陀仏をたのむこころのひとすぢなるゆゑなり。これ至誠心なり。名号をとなふるは、往生をねがふこころのおこるゆゑなり。これ回向発願心なり。これらほどのこころえは、いかなるものも念仏して極楽に往生せんとおもふほどのひとは具したるゆゑに、無智のものも念仏だにすれば、三心具足して往生するなり。ただ詮ずるところは、煩悩具足の凡夫なれば、はじめてこころのあしともよしとも沙汰すべからず。ひとすぢに弥陀をたのみたてまつりて疑はず、往生を決定とねがうて 申す念仏は、すなはち三心具足の行者とするなり。「しらねどもとなふれば自然に具せらるる」と聖人(源空)の仰せごとありしは、このいはれのありけるゆゑなり。


【10】 またあるひとのいはく、名号をとなふるときに、念々ごとにこの三心の義を存じて申すべく候ふやらん。

 師のいはく、その義またあるべからず。ひとたびこころえつるのちには、ただ南無阿弥陀仏ととなふるばかりなり。三心すなはち称名の声にあらはれぬるのちには、三心の義をこころの底にもとむべからず。

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