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無我

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2022年9月3日 (土) 02:54時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

むが

 梵語アナートマン(anātman)またはニラートマン(nirātman)、ナイラートミヤ(nairātmya)などの漢訳。非我とも漢訳する。

Ⅰ.我とは、常住であり()、唯一のものであり()、万物の主体であり()、支配者である()ような実体的な存在をいう。すべてのものにはこのような実体的な我が内在していると説く有我説を否定するのが無我説である。仏教の根本特徴である三法印(さんぽういん)の一に諸法無我を説く。
Ⅱ.我執(がしゅう)のないこと。我執を離れたこと。
Ⅲ.自力のとらわれのないこと。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

無我(我でない、我はない)

むが 無我

 梵語アナートマン(anātman)、ニルアートマン(nirātman)、ナイラートミヤ(nairātmya) などの意訳。

Ⅰ 我とは、伝統的に「常・一・主・宰」の四義によって定義され、常住であり (常)、唯一のものであり (一)、万物の主体であり (主)、支配者である(宰) ような実体的な存在をいう。初期には、非我 (我ではない) なるものを我とみなすことを否定した考え方であったが、のちにすべてのものには実体的な我が存在しないという意味として確立された。『大経』には「諸法の性は、一切、空無我なり」(註 45)と説かれている。なお、仏教思想の根本真理としての三法印の一に諸法無我を説く。
Ⅱ 我執のないこと。我を離れていること。 (浄土真宗辞典)

むが 無我

 (梵) アナートマン anātman またはニル・アートマン nir-ātman の訳。非我とも訳す。我とは、永遠に変わらずく(常)、独立的に自存し(一)、中心的な所有主として(主)、支配能力がある(宰)と考えられる霊魂的或いは本体的実在を意味する。すべてのものにはこのような我がなく、我ではないと説くのを諸法無我という。無我 を観ずるのを無我観という。無我は仏教の根本教条であって三法印の無我印を説く。 無我には人法二無我の説があり、有情(生きもの)は五取蘊(凡夫としての生存を構成する物心両面にわたる五要素)仮に和合したものに他ならないから、別に実体的な生命の主体というようなものはないとするのを人無我といい、あらゆるものは因縁(種々さまざまな条件)によって生じたもの(仮に成り立っているもの)であるから、そのものに本来的に固有な独自の本性(自性)はないとするのを法無我という。 ① 阿含では、すべてのものは条件に依存し、従ってうつろい滅びる無常なものであり、おもいのままにならない苦のものであるからであるから無我であるろ説く。 ⑵ 有部では我空法有といって、人無我を説くが存在する要素はそれぞれ自性があるとし、法無我を説かない。 ③ 成実論では、五蘊のうちに実の自我はないと見て人無我を観するのを空観、五蘊の法はみな無常で実の自性がないと見て法無我を観ずるのを無我観とする。 ④ 大乗では 一般に二無我即ち我法二空(人法二空)を説くが、なかんずく 唯識宗では三性説に基づき三無我の説を立てる。 即ち遍計所執の実我実法は情有理無で実には我の相はないから無相無我、依他起の似我似法は如幻仮有で執着された我の相と異なるから異相無我、円成実は識の実性で無我により顕された真如を自相とするから自相無我であるとする。(仏教学辞典)

常一主宰
常楽我浄

参照オンライン版 仏教辞典の「しょほうむが」の項目
参照WEB版浄土宗大辞典の「無我」の項目