無有疑心
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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- 無有疑心の法話。
御開山は「本願成就文」の問を釈して、
しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(p.251)
と、疑心あることなし(無有疑心)と示される。
数十年前に聴いた法話のテープだが、山口県の布教使の方が、この無有疑心を巧みにお説教して下さった。
その布教使がある寺の三日間の法座へ招かれた。初日にお腹が痛くなったので寺の近所にある商店街に腹痛の薬を買いに出かけた。
お店に入って、自分が常用している、かくかくしかじかの薬が欲しいと告げたところ、店員さんはありませんと答える。明日ならばありますか? と聴いたところ明日も明後日も一年後もありません。薬屋さんは隣です、と云われたそうである。
商店街は看板が密集しているので間違うことも多い。
そして、浄土真宗における無有疑心(疑心あることなし)とは、八百屋に魚が「有」るとか「無」いを論ずるのではなく、全く無い状態を表す言葉が無有疑心(疑心あることなし)であるとお説教しておられた。
浄土真宗の信とは「無有疑心」と有ることの無い状態を示す言葉であった。そして、何があるか?と云えば選択本願のなんまんだぶがあるのであった。。
浄土真宗の賜りたる信心とは、わたくしの拵えた信を全く離したときに私の上に顕現する信でした。それは私の上にあるけれどもわたくしのものではないから、越前の門徒は「ご信心」と言い慣わしていたものあった。
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