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無有疑心

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むう-ぎしん

 疑心あることなし。

御開山は「本願成就文」で、

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これをといふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(信巻 P.251)

と、疑心あることなし(無有疑心)と述べておられた。
善導大師は『礼讃』で、一には至誠心、二には深心、三には回向発願心との二の深心を、

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。 (往生礼讃 P.654)(行巻(p.188)、(信巻(p.228)で『礼懺儀』として引文)

『礼懺儀』には「下十声・一声等」が「下十声・一声等」と「聞」の字がるので聞の人であった御開山はあえて『礼懺儀』を引文されたのであろう。

と、真実の信心は「疑心あることなし」(無有疑心)と述べておられた。
また、この『礼讃』の「無有疑心」(疑心あることなし)の文は『往生要集』(p.970)や『選択集』(p.247 ) などでも引用されていた。浄土教信心仏法でもあるのだが、阿弥陀仏の本願力回向仏智正受することを「疑心あることなし」(無有疑心)といふのである。
これを本願に疑い心の蓋(ふた)を雑(まじ)えない疑蓋無雑の「無疑心」(疑い心なし)ともいふのである。

無疑心
疑蓋無雑
トーク:無有疑心
下至十声聞等