門徒
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
もんと
本来は、同一の系譜に連なる仏教の僧侶を指したが、浄土真宗においては、阿弥陀仏の〔なんまんだぶ〕による生死(輪廻)からの済度を聞き慶ぶ在家の聞信者の意に用いられた。関東の御開山の弟子を高田門徒・大網門徒・鹿島門徒・横曽根門徒などと呼称することや、蓮如さんが同信者を朋同行と強調されたことなどから門徒とはもっぱら真宗信者一般に対する呼称となった。その意味で浄土真宗は「門徒宗」「一向宗」などとも呼ばれた。現在でも浄土真宗の盛んな地域の門徒を、安芸門徒、越前門徒、加賀門徒などという。 阿弥陀仏一仏への純粋な信を強調し迷信としての習俗を否定するので、江戸時代中期の儒学者であった太宰春台(1680-1747)は『聖学問答』で、
- 日本の仏者の中に、一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専(もっぱら)にして、他の仏神を信ぜず、如何なる事ありても、祈祷などすること無く、病苦ありても呪術・符水を用いず、愚なる小民・婦女・奴婢の類まで、皆然なり、是親鸞氏の教の力なり。『聖学問答』
と、浄土真宗門徒の「仰信」の純一で専心専念の「行信」なることを「親鸞氏の教の力なり」とされていた。なお、この俗信としての祈祷、呪術、符水を用を用いないことを「門徒もの知らず(*) と揶揄されることもあった。もちろん門徒は正当な医療行為は受容する。
この意を、法然聖人は『浄土宗略抄』で、
- 又宿業かぎりありて、うくべからんやまひは、いかなるもろもろのほとけかみにいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれかは一人としてやみしぬる人あらん。(『浄土宗略抄』)
と、神仏に祈ることで病気が治ったり延命ということはあり得えない、と言わていれていた。「名体不二」の、なんまんだぶを称え西方への「往生」する浄土を持つ者には、死は衆生済度を楽しめる新しい浄土の菩薩としての生のはじまりであった。
- →慈悲に聖道・浄土のかはりめあり
- →後世者
- →牛盗人・牛を盗みたる人
- →おとりこし
- →道場