自然法爾
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
じねんほうに
親鸞聖人は、救済は人間のはからいによって成立することではなくて、本願力の自ずからなるはからいによって往生成仏せしめられることを自然といい、本願の法則としてそのようにあらしめられることを法爾といい、自然と法爾を同義語とされた。(正像 P.621,消息 P.768)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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然は、呉音ではネン、漢音ではゼンと読む。仏教語では呉音で読むので自然(じねん)と発音する。
御開山の著述には自然法爾という四字熟語はない。表題の『自然法爾章』は後に弟子によって付加されたものといわれる。元来「自然法爾」というような表現は、仏教においては、あらゆるものが原因なく自然に生じるという縁起(因果)を否定した「自然外道」を指す語であった。天台の学僧であられた御開山が『自然法爾章』などと表題するはずがないとされる。
御開山は、自然=法爾=本願力=阿弥陀仏の絶対他力、であるとみられて、自然と法爾は同じ意味であり、人間のはからい(作為、意図)を超えた本願の必然のはたらきを示す語とされたのであろう。自然や法爾ということは、本願を聞信している者に対して開かれる言葉であって、一声のなんまんだぶも称えない輩に対する語ではないことに注意。 →自然 →必然 →他力