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他力

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

たりき

 利他力のこと。阿弥陀如来が「他」である衆生を救済するはたらきをいう。
阿弥陀仏本願力。阿弥陀仏が〔他である〕衆生(しゅじょう)済度するはたらき。→自力(じりき)、補註12(他力・本願力回向)。(御消息 P.746)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

「行巻」の行信利益で、

 しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。(行巻 P.186)

と阿弥陀仏は摂取不捨であるから他力とされている。その意を、

 他力といふは如来の本願力なり。(行巻 P.190)

と明確に定義されている。他力とは阿弥陀如来の衆生済度の利他力の本願力である。

阿弥陀仏が主体であり衆生は客体である事。この場合、他力の他とは衆生を指すのであり、(衆生)を「済度」する阿弥陀仏の本願力のはたらきをという。
つまり、他力の他とは我々の事であり決して自己を中心として文節する言葉ではないのである。 将談仏力 まさに仏力を談じているのである。

正しい他力本願の意味

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言葉は長い間使われているうちに意味の拡散が起こり、本来の意味とはかけ離れた意味で使用されることがあります。浄土真宗で阿弥陀如来の救済力をあらわす他力本願という用語もこのような言葉の一つです。

本来的には他力という言葉は、主体(仏:救済する者)と客体(衆生:救済される者)を自と他に分け、仏である自から済度される衆生を他とした言葉です。

である阿弥陀如来の救済力が、如来からみてである衆生を「済度」し続ける本願力を他力と表現したのです。阿弥陀如来を中心とした秩序のある世界観を表わす言葉だったわけです。

他力の他は私たち衆生なのです。自他が逆転しているのです。仏から汝と喚(よ)び続けられる存在が他なのです。このような意味で親鸞聖人は「他力というは如来の本願力なり」と仰られたのです。

インクルード 他利利他の深義
たり-りたのじんぎ  「行巻」一九二頁九行(行巻 P.192)以下の本文および同頁の脚注参照。 (証巻 P.335,浄文 P.484, 二門 P.548)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

今将談仏力(いままさに仏力を談ぜんとす)

親鸞聖人は『証巻』の末尾で次のように「他利・利他の深義(じんぎ)」ということを仰るのだが一切の解説がない。

「宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。」(証巻 P.335)

この他利利他の語は『浄土論註』の「覈求其本釈(かくぐごほんしゃく)[1]からの引文である。天親菩薩の『浄土論』では、五念門の成就を、

また五種の門ありて漸次に五種の功徳を成就す、知るべし。(浄土論 P.41)

とし、漸次に五種の功徳を成就するとされている。しかし、『浄土論』の結論では、

菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他す。速やか阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得るゆゑなり。 (浄土論 P.42)

とあり、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得とされる。この〈漸次〉と〈速やか〉の違いを考察されたのが曇鸞大師の覈求其本釈であった。この〈速〉とは、『浄土論』の不虚作住持功徳の偈、

観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海 [2]
仏の本願力を観ずるに、()ひて空しく過ぐるものなし。 よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。(浄土論 P.31)

の、速やかを承けたものである。 曇鸞大師は『浄土論註』の冒頭で、すでに釈尊が入滅されて仏陀の存在しない無仏の時代に悟りを得る困難を五つ挙げられ結論として、

五にはただこれ自力にして他力の持(たも)つなし。
かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。(論註 P.47)

と他力を釈された。龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の難行道易行道という名目を、難行道を自力、易行道を他力と対判にすることよって、自力であるならば漸次であるが利他力である仏願力に乗ずれば速やかに仏果を得ることが出来る、と次の覈求其本釈をあらわされたのであった。

問ひていはく、なんの因縁ありてか「速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得」といへる。
答へていはく、『論』(浄土論)に「五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑなり」といへり。
しかるに(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす。このゆゑに「利他」をもつてこれをいふ。
まさにこの意を知るべし。おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。(論註 P.155) →覈求其本釈

と、仏力(本願力)を談じられた。
本来、他利と利他は同義語であって意味に違いはない筈なのだが、曇鸞大師は「談ずるに左右あり」と言われる。 この談ずるに左右ありの解釈に古来から和上方が苦心されてきたところで「他利と利他と、談ずるに左右あり」は一体なにを意味しているかの考察である。

これは親鸞聖人の「他力=利他力=本願力」という思想の根幹になるもので、古来から各種の説が論じられてきた。 今、ここでは梯實圓和上の論文から一部を抜粋してその意を窺ってみよう。

『親鸞聖入の他力観』(p17)梯實圓和上
私は、他利とは他なる仏に衆生が利益されることをいい、利他とは仏が他なる衆生を利益することをいうとする『論註翼解』の説を採用したいと思う。
従来同義語として用いられていた他利と利他とを「談ずるに左右あり」といわれたのは、仏力成就の五念 *という特別の義意を表すためであった。
それにしてもこのように左右を見ることができたのは、「利」を動詞と見て、それを中心に、「他利」は「他利自(他が自を利す)」の「自」という目的語を省略した語であり、「利他」は、「自利他(自が他を利す)」の主語の「自」を省略した語型と見られたからではなかろうか。
したがって他利は他者である阿弥陀仏が、衆生、すなわち私を利益するという状況を表現する言葉になる。この場合は救済される者を「自」すなわち「我」とし、救済する如来を「他」すなわち「汝」と見ていることになるから、「衆生よりしていはば宜しく他利といふべし」ということになる.
それにひきかえ利他は自者である如来が他なる衆生を救済するという状況を表現する言葉になる。
この場合は救済する者を「自」というから如来が「我」であり、救済される衆生は他者すなわち「汝」と見ての発言になる。
それが「仏よりしていはぱ宜しく利他といふべし」といわれた意味であろう。
仏の救済活動を仏の側、すなわち法の側から表すには「我よく汝を救う」と、仏を「我」として衆生を「汝」と呼ぶ表現である「利他」がふさわしいから、「いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ」といわれたのである。
利他は法の側から仏力を談ずる言葉であるというのである。
後に親欝聖人が本願力回向を表すのに利他という表現を多く用いられたのはその故である。

「今将談仏力(いままさに仏力を談ぜん)」であるから、阿弥陀仏の本願力を阿弥陀仏の側からあらわしているとされたのである。

他利:他利(自) 「他が自を利す」他である仏(他)が、自である我(自)を利益する。

他利 他利自 (他が自を利す) 無義為義 →約生

利他:(自)利他 「自が他を利す」 自である仏(自)が、他である我(他)を利益する。

利他 自 (自が他を利す)無作の義 →約仏

つまり、如来の衆生済度を衆生の側からいえば他(如来)が我を利すといい、仏の側からいえば仏が他である汝を利すという。ここでは、いままさに仏の方から仏力を談ずる(今将談仏力)ので他利ではなく利他といわれたと親鸞聖人は見られたのである。
この指示によって『浄土論』で説かれている五念門行は行者が修するのではなく、本願力のはたらきをあらわしているのだとみられたのであった。ゆえに『論註』の五念門成就の功徳を衆生に回向する意に転意され敬語で表現されている。[3]
『浄土論』には他利という語は一語も用いられていない。それを曇鸞大師があえて他利という言葉を使い、利他という言葉と対判された意の深い意味をくみとられたのが親鸞聖人であった。この「覈求其本釈」によって『浄土論』は本願力回向をあらわす書となったのである。これが「他利利他の深義」であった。この本願力による衆生済度力用(誓願一仏乗) を御開山は他力というのである。
浄土門で他力という言葉は知られていたが、それはあくまで自己を主体として自己を救済する対象としての他なる力という解釈であった。これが通常の他力という語の理解であった。たとえば鎮西浄土宗では、聖道門は自力を修して仏加を請うから自力が強く他力が弱い。それに対して浄土門では、仏力を信じ仏願に順じて念仏するのであるから他力が強く自力が弱いとしていた。このように自己を主体として仏力を解釈するのが標準的な解釈であった。→選択伝弘決疑鈔
しかし親鸞聖人は、この曇鸞大師の示される「他利利他」の語によって、主体の転換、いわばコペルニクス的主体の大転換が説かれていることを発見されたのであった。それは、穢土と浄土という二元対立する世界を包み込んでいく往相・還相という本願力の躍動する一元的な世界であった。知性と実践という人間の思慮分別の思議の世界観から、阿弥陀仏の本願力による大悲大智のはたらく仏智不思議の世界観への転換であった[4]。この感動が天親の親と曇鸞の鸞の一字を採り「親鸞」と名乗る動機だったのである。[5]

さて、親鸞聖人は、利他深広の信楽、利他真実、利他の真心、利他回向の至心、利他真実の信心、利他真実の欲生心、利他の信海、利他円満の妙位、利他の一心などなど利他という言葉を使われている。この利他とは、他者に功徳・利益を施して救済し仏に成らしめることをいい、阿弥陀仏の側からの救いの働きである本願力をいう。

これを親鸞聖人は、

他力といふは如来の本願力なり。(行巻「他力釈」P.190

と仰ったのである。他なる衆生を済度するのが如来の本願力なのであった。他が自を救済する意味で他力と仰ったのではない。[6]

親鸞聖人は『愚禿鈔』の「二河譬」で阿弥陀如来の招喚を、

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈一心正念にして直ちに来れ、能く護らん〉」
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。
{─中略─}
「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。(愚禿鈔 P.538)

と釈され、「汝」の言は行者なり、とされ、「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり、と仰るのもこのような本願力による衆生への回向の世界をあらわしておられるのである。いわば、如来から他である汝として呼びかけられる自己の発見であった。

他力という言葉が、他者依存のような意味で用いられているが、本来の他力という言葉の意味は、一方的に衆生を済度しつつある阿弥陀如来の利他力(本願力)を仏の側から表現した言葉である。先人が本願海度出のなんまんだぶを「名号の独用(ひとりばたらき)」と示された所以である。
なお、『浄土論註』では、この覈求其本釈の次に「速やか」であることの本願力の証明を、第十八願(至心信楽の願)、第十一願(必至滅度の願)、第二十二願(還相回向の願)によってなされている。これを三願的証(さんがん-てきしょう)という。 →三願的証


脚註

  1. 覈求其本釈(かくぐ-ごほんし-ゃく)。◇《覈》は〈まことに〉、〈あきらかに〉、〈しらべる〉、と読み。おおわれている事実をしらべ明らかにする意がある。《求》は推求という意。《其》は『浄土論』の「五門の行を修して自利利他す」の五念門成就を指す。《本》は本源の意。《釈》は解釈の意である。
    よって「覈求其本釈」とは、自利利他を速やかに成就する因を推察し明らかにする解釈ということ。
  2. 御開山は、この『浄土論』の偈から以下の和讃をしたためておられる。
    (13)
    本願力にあひぬれば
     むなしくすぐるひとぞなき
     功徳の宝海みちみちて
     煩悩の濁水へだてなし
  3. 例えば、「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり 」(論註 P.107) の文を〈いかんが回向する、一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉(行巻 P.159) と訓まれている。
  4. 田村芳朗氏は、このような穢土と浄土という二元を包みこむ本願の世界観を「相対の上の絶対」と考察していた。→絶対の真理
  5. 御開山は、新しい心の視野が開けると名前を変えられる。叡山時代の「範宴」という名を法然門下に入ると、聖浄二門判によって浄土門をあかされた道綽の綽と、師の源空の空の一字を採り「綽空」と名乗られた。また、善導、源信の教学を自分のものにされた時、各々の一字によって「善信」と名乗られたのであろう。そして、この祖師方の教学をすっぽりと包み込む、天親菩薩の『浄土論』、曇鸞大師の『浄土論註』が描く本願力の世界に出あわれて、「親鸞」と名乗られるようになったのである。改名によって信に死して願に生きる、新しい自己の誕生という意図があったのであろう。
  6. もちろん御開山も他力という言葉で、我に如-来する阿弥陀如来を語る場合も多い。しかしここで「他力といふは如来の本願力なり。」(行巻 P.190)とされているのは阿弥陀仏を主体とし衆生を客体とするのであり、これが他力という語の本義である。