業識
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ごっしき
父母の和合によって母胎に宿る個人(子)の主体である識別作用。ここは信心を業識に喩える。(行巻 P.187, 執持鈔 P.864、序分義 P.382)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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ごっしき 業識
過去世の業によってうける識別作用のこと。「序分義」に
- すでに身を受けんと欲するに、みづからの業識をもつて内因となし、父母の精血をもつて外縁となして(七註 382)
とあるのは、父母の和合によって母体に宿る個人(子)の主体である識別作用をいう。「行巻」には
- 信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。(註187)
とあり、信心を業識に喩えている。(浄土真宗辞典)
梯實圓和上は、聖典セミナー「教行信証」p.277で、
「業識」という言葉は、インドの部派仏教などで輪廻転生を説明するのに用いた語で、托胎のときに有情の主体となる識(自他を識別することのできる心のはたらき)が母胎に宿ると考え、それは無明(無知)と業(行為)によって生ずる識であるということで「業識」と名づけたわけです。すなわち父母の精血が和合したとき、その人その人の過去の業報として成立し、個別的な自我意識の元となるものが母胎に宿ると考え、それを業識と名づけたわけです。それがやがて子となって生まれてくると信じられていました。
つまり世間一般では、父母によって子が生まれるといっていますが、実際は父母の精血の和合したところに、その人の前世の業の果報として、その人となるべき自我意識(業識)が宿り、父母を縁としながらも、父母とは違った独自の人格が生まれてくるというのが、部派仏教などで考えられていた業報説による個体発生論だったわけです。
このように、譬えとして用いられた父母と子どもとなるべき業識とは、明らかに別体とみなされていたわけです。しかし、この譬えで表されている信心と名号とは、機と法の違いはありますが、決して別物ではありません。
一つの南無阿弥陀仏を機(救われるものの側)からいえば信心といい、法(救うものの側)からいえば名号であるというような関係にありますから、名号と信心とは、体は一つです。
したがって信心を業識とし、名号を父と譬えた場合、名号と信心が別体とみなされるおそれがありますから、この父と業識の譬えは一分の譬えとして用いられたもので、譬えと法義がまったく重なるものではないことを注意しておく必要があります。
なお、この父母と子の譬えは、前に述べたように古代インドで輪廻転生論を説明するための教説であって、厳密な意味での個体発生の仕組みを表したものではありません。
と述べられていた。
- →両重因縁