人惑を受けず
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にんわくをうけず。
『臨済録』の「但莫受人惑(ただ人惑を受くるなかれ)」からの造語。
浄土真宗では、言葉によって法を伝える「聴聞」ということを重視する。しかして、時には法を説く人に依存しすぎて返って法を見失うことがある。これを「知識帰命」として「人間に救いの証言を求めること」を否定してきたのが浄土真宗の歴史であった。
聴聞すべきことは、口に称えられる念仏往生の「仏願の生起本末」を聞き「なんまんだぶつ」を称えることである。しかし、ともすれば法を説く人のみを信じて、説かれた法を「聞信」することを見失うから「知識帰命の異義」というのであった。善知識といふ影だけを見て、法をみないから、先人は禅語を用いて「人惑を受けず」といわれた。
善導大師は「散善義」の就人立信釈の第四破で
- またこの事を置く、行者まさに知るべし。 たとひ化仏・報仏、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、おのおの光を輝かし、舌を吐きてあまねく十方に覆ひて、一々に説きてのたまはく、「釈迦の所説に、あひ讃めて一切の凡夫を勧発して、〈専心に念仏し、および余善を修して、回願すればかの浄土に生ずることを得〉といふは、これはこれ虚妄なり、さだめてこの事なし」と。
- われこれらの諸仏の所説を聞くといへども、畢竟じて、一念疑退の心を起してかの仏国に生ずることを得ざることを畏れず。 (散善義 P.461)
と、たとえ化仏・報仏が空を覆って光をかがやかし、念仏(なんまんだぶ)を称えて浄土へ往生するということを虚妄であると否定しても、念仏往生の法を疑うことなかれと仰せであった。善導大師の強烈な信心の吐露である。
御開山はその意を『歎異抄』によれば、
- 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。
とされ、「ただ念仏のみぞまことにておはします」と唯信仏語の意を示されたのであった。そらごとは空言(空事)であり、たはごととは戯言(戯事)であった。ただ「名体不二」の念仏(なんまんだぶ)のみが真実であった。→真仏弟子
禅仏教では「殺仏殺祖」といい「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親眷に逢えば親眷を殺して、始めて解脱を得ん」というのであった。我々が物事を認識する場合には、必ず言語による分節化を行い、それを分る/分ったというのである。そのような言語による概念的思惟を否定し、仏とか祖という対立概念としての言葉を破壊する表現が「殺仏殺祖」である。いわゆる禅門では、言(ことば)によって言の虚妄性をを破るのであり、これを「人惑を受けず」といふ。
- 師示衆云、道流、仏法無用功処。祗是平常無事。屙屎送尿、著衣喫飯、困来即臥。愚人笑我、智乃知焉。 ─ 「示衆」
- 道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢仏殺仏、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不与物拘、透脱自在。 ─ 「示衆」
- 道流、この如法に見解せんと欲得すれば、ただ人惑を受くるなかれ。裏(うち)に向かい外に向かい、逢著すれば便ち殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親眷に逢えば親眷を殺して、始めて解脱を得ん、物と拘(かか)わらず、透脱すること自在ならん。