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あぬるだ

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

増壹阿含經卷第三十一


聞如是。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。
爾時世尊與無央數百千萬衆而爲説法。爾時阿那律在彼坐上。是時阿那律在衆中睡眠。爾時佛見阿那律睡眠。便説此偈

受法快睡眠 意無有錯亂
賢聖所説法 智者之所樂
猶如深淵水 澄清無瑕穢
如是聞法人 清淨心樂受
亦如大方石 風所不能動
如是得毀譽 心無有傾動

是時世尊告阿那律。汝畏王法及畏盜賊而作道乎。
阿那律報曰不也世尊。
佛告阿那律。汝何故出家學道。
阿那律白佛言。厭患此老病死愁憂苦惱。爲苦所惱故欲捨之。是故出家學道。
世尊告曰。汝今族姓子。信心堅固出家學道。世尊今日躬自説法。云何於中睡眠。
是時尊者阿那律即從座起偏露右肩。長跪叉手白世尊言。自今已後形融體爛。終不在如來前坐睡。爾時尊者阿那律達曉不眠。然不能除去睡眠。眼根遂損。
爾時世尊告阿那律曰。勤加精進者。與調戲蓋相應。設復懈怠與結相應。汝今所行當處其中。
阿那律白佛。前已在如來前誓。今不能復違本要。
是時世尊告耆域曰。
療治阿那律眼根。
耆域報曰。若阿那律小睡眠者我當治目。
世尊告阿那律曰。汝可寢寐。所以然者。一切諸法由食而存非食不存。眼者以眠爲食。耳者以聲爲食。鼻者以香爲食。舌者以味爲食。身者以細滑爲食。意者以法爲食。我今亦説涅槃有食。
阿那律白佛言。涅槃者以何等爲食。
佛告阿那律。涅槃者以無放逸爲食。乘無放逸得至於無爲。
阿那律白佛言。世尊。雖言眼者以眠爲食。然我不堪睡眠 

爾時阿那律縫故衣裳。是時眼遂敗壞。而得天眼無有瑕穢。是時阿那律。以凡常之法而縫衣裳。不能得使縷通針孔中。是時阿那律便作是念。諸世間得道羅漢當與我貫針。
是時世尊以天耳清淨聞此音聲。諸世間得道阿羅漢者。當與我貫針。
爾時世尊至阿那律所而告之曰。汝持針來吾與貫之。
阿那律白佛言。向所稱説者。謂諸世間欲求其福者與我貫針。
世尊告曰。世間求福之人無復過我。如來於六法無有厭足。云何爲六。一者施。二者教誡。三者忍。四者法説義説。五者將護衆。六者求無上正眞之道。是謂阿那律。如來於此六法無有厭足。
阿那律曰。如來身者眞法之身。復欲更求何法。如來已度生死之海。又脱愛著。然今日故求爲福之首。
世尊告曰。如是阿那律。如汝所説。如來亦知此六法爲無厭足。若當衆生知罪惡之原身口意所行者。終不墮三惡趣。以其衆生不知罪惡之原故墜墮三惡趣中。
爾時世尊便説此偈

世間所有力 遊在天人中
福力最爲勝 由福成佛道

是故阿那律當求方便得此六法。如是諸比丘當作是學。爾時諸比丘聞佛所説。歡喜奉行。


読み下し

聞くこと是の如し。一時仏、舎衛国、祇樹給孤独園に在(おわ)しき。爾の時、世尊、無央数百千万衆の與(ため)に説法を為したまひき。
爾の時、阿那律、彼の坐上に在り。是の時、阿那律衆中に在りて睡眠(ねむ)りぬ。爾の時仏、阿那律の睡眠れるを見たまひて、便ち此の偈を説きたまわく。

法を受くれば快く睡眠り 意(こころ)錯乱有ること無し
賢聖の説く所の法は 智者の楽しむ所なり
猶し深淵の水の 澄清にして瑕穢無きが如く
是の如く法を聞く人は 清浄にして心楽受なり。
亦た大方石の 風に動くこと能はざる所なる如く
是の如く毀誉を得るも 心、傾動有ること無し。

是の時世尊、阿那律に告げたまわく、「汝王法を畏れてや及び盗賊を畏れてや道を作す乎(や)」と。
阿那律、報(こた)へて曰さく、「不(いな)なり世尊」と。
仏、阿那律に告げたまわく、「汝、何の故に出家学道せしや」と。
阿那律、仏に白して言(もう)さく、「此の老・病・死・愁・憂・苦・悩、苦の為に悩まさる所(る)るを厭患せしが故に、之(これ)を捨てんと欲し、是の故に出家学道せり」と。
世尊、告げて曰はく、「汝今 族姓子[1]、信心堅固にして出家学道せしや、世尊、今日躬(み)自ら法を説くに、云何が中に於いて睡眠せしや」と。

是の時尊者阿那律、即ち座より起ち、偏へに右肩を露はし、長跪叉手して世尊に白して言さく、「今より已後、形融け体爛(ただ)るとも、終(つい)に如来の前に坐して睡らじ」と。爾の時尊者阿那律、暁に達するも眠らず、然も睡眠を除去すること能はず、眼根遂に損しぬ。

爾の時世尊、阿那律に告げて曰はく、「勤加精進する者は、調戯蓋[2]と相応す。設(も)し復た、懈怠せば結[3]と相応す。汝の今の所行は、当に其の中に処るべし」と。
阿那律仏に白さく、「前に已に如来の前に在りて誓へり、今復た本要に違ふこと能はず」と。

是の時世尊、耆域[4]に告げて曰く、
「阿那律の眼根を療治せよ」と。
耆域、報へて曰さく、「若し阿那律にして小(すこ)しく睡眠せば、我、当に目を治すべし」と。
世尊、阿那律に告げて曰はく、「汝、寝寐(ね)るべし。然る所以は、一切の諸法は食するに由りて存す、食するに非らずば存せず。眼は眠りを以て食と為し、耳は声を以って食と為し、鼻は香を以て食と為し、舌は味を以て食と為し、身は細滑を以て食と為し、意は法を以て食と為す。我今亦た涅槃に食有りと説く」と。
阿那律仏に白して言さく、「涅槃は何等を以て食と為すや」と。
仏、阿那律に告げたまわく、「涅槃は無放逸を以て食と為す。無放逸に乗ずれば無為に至ることを得ん」と。
阿那律、仏に白して言さく、「世尊、眼は眠りを以て食と為すと言ふと雖も、然も我睡眠に堪えまじ」と。


爾の時。阿那律、故(ふる)き衣裳を縫へり。是の時 眼、遂に敗壊して天眼を得、瑕穢有ること無し。是の時 阿那律、凡常の法を以て衣裳を縫ひ、縷(いと:糸)をして針の孔中に通ぜ使(し)むることを得る能はず。是の時阿那律、便ち是の念を作さく、「諸の世間の得道の羅漢は当に我の与(ため)に針を貫くべし」と。
是の時世尊、天耳の清浄なるを以て此の音声を聞きたまへり、「諸の世間の得道の阿羅漢は、当に我の与に針を貫くべし」と。
爾の時世尊、阿那律の所に至り之(これ)に告げて曰はく、「汝、針を持して来れ、吾[汝が]与に之(これ)を貫かん」と。
阿那律仏に白して言さく、「向(さき)に称説する所は、諸の世間の其の福を求めんと欲する者は、我の与に針を貫けと謂ふなり」と。[5]
世尊告げて曰はく「世間に福を求むるの人復た我に過ぐるもの無し。如来は六法に於いて厭足有ること無し。云何ぞ六と為すや。一には施、二には教誡、三には忍、四には法説・義説。五には衆[生]を将護し、六には無上正真の道を求む。是れを阿那律、如来は此の六法に於いて厭足有ること無しと謂ふなり」と。
阿那律曰さく、「如来の身は真に法の身なるに、復、更に何の法を求めんと欲したまふや。如来は已に生死の海を度し、又愛著を脱したまへり。然るに今日は故(さら)に、福の首(しゅ)為(な)ることを求めたまふや」と。
世尊告げて曰はく、「是くの如し、阿那律、汝の所説の如く、如来も亦た此の六法を知りて、為に厭足無し。若し当に衆生にして、罪悪の原(もと)、身・口・意の所行を知るべくんば、終に三悪趣に堕せじ、其の衆生罪悪の原を知らざるを以ての故に、三悪趣の中に墜堕するなり」と。
爾の時世尊、便ち此の偈を説きたまわく、

世間に所有の力 天・人の中に遊在するに
福力最も勝れ為(た)り 福に由て仏道を成ず。

是の故に阿那律、当に方便を求めて此の六法を得べし。是の如く諸比丘、当に是の学を作すべし」と。
爾の時、諸比丘、仏の所説を聞いて、歓喜奉行しぬ。

国訳

  1. 経典の中で法を聞く相手に仏が呼びかけられる時に用いられる。善男子のような呼びかけ語。kulaputra、クラ・プトラ(良家の男子)。
  2. 五蓋の中の掉悔蓋のこと。ここでは阿那律が眠らないことを、心がふわふわとした躁の状態かまたは鬱の状態なのではないかと問われている。煩悩の異名。
  3. 衆生を迷いの状態に結縛するので結という。煩悩の異名。
  4. 耆婆のこと。梵名ジーヴァカ(Jīvaka)の音写。釈尊在世当時のインドの名医。『往生要集』に耆域医王とある。
  5. 「福を求めんと欲する者」の福とは他者の為になる善き行為の意。『無量寿経』では福田として福徳を生ずる田の意とする。ここで阿那律は、釈尊は福徳円満しておられ求める何物も無いはずなのに、なにゆえ福を求められるのですかと疑問を出している。