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教行証

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

教行証  きょう-ぎょう-しょう

① 教えと行とさとり。教行果ともいう。教とは仏が説いた教え、行とは教に従って衆生がする修行、証とは行によって得られるさとりを意味する(世親の十地経論巻三、智顗の法華玄義五下など)。
② また教は理をあらわすものであるから、あらわす教とあらわされる理を分けていえば、教理行果の四法となる(窺基(きき)の義林章巻六本)。
③ 親鸞は聖道門(この世でさとりをひらく教え)の教行証に対して浄土門(浄土へ生まれ、そこでさとりをひらく教え)の教行証[1]を示し、行とはさとりの果へ至らせる因[2]であるから衆生が修(おさ)める自力の行ではなく、衆生をして信じさせ称えさせるはたらきとしての名号そのものであり、衆生はその大行を信じさせられる一念に往生が定まるから信が往生の因[3]であるとして、行を分けて行と信の二とし[4]、教行信証の四法を立てる(教行信証)。(仏教学辞典)
行信
三法
四法
三法立題
安心論題/所帰人法

脚注は投稿者が付した。

  1. 親鸞聖人は題号を『顕浄土真実教行証文類』とされ、三法立ての教・行・証の名目で呼ばれたから略称 は「教行証」とするのが正しい。ただし内容は教・行・信・証の四法立てになっているので「教行信証」と呼称しても間違いではないのだが、信の名目に幻惑されて、希有の行である念仏を軽視するおそれもある。南無阿弥陀仏を称える、衆生救済の大行である回向された名号法は、阿弥陀如来の「大悲の願(第十七願)より出でた」(p.141)「誓願一仏乗」(行巻p.195)の法であり、あらゆる衆生をさとりへ運載する「大悲の願船」(行巻p.189)なのである。
  2. 果報を生ずる因となる行為(口業)であるから業因ともいう。業とは造作の義で行為、所作、意思による身・口・意の活動を意味し、浄土真宗では口業の念仏を往生成仏の業因とする。阿弥陀如来が選択された本願の名号は、しく往生の決する行である。(本願名号正定業)
  3. 本願に誓われた大行である称名の業因を衆生が受け容れるのが信心であるから信心正因という。時間を超えた永遠の救いの法である名号が、有限な存在である衆生に受け取られた時を信楽開発というのである。「一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(信末p.250)とされる所以である。
  4. 阿弥陀如来の救済法である名号を称える行に納められた、行中摂信の行から信を別に開いたので信別開という。ゆえに「信巻」には別序があるのであり、信の根拠を示す出体釈はない。体をいうならば「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり 」(行巻p.232)とあるように「行巻」であらわされた名号が体である。「真実信心必具名号(真実の信心はかならず名号を具す」)(信本p.245)である。真実の信の対象は阿弥陀如来の全徳施名の名体不二の名号だからである。ゆえに衆生の手元では行を離れた信はなく、信を離れた行もないのでこれを行信不離というのであった。