安心論題/所帰人法

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安心論題の話

はじめに
(1)聞信義相
(2)三心一心
(3)信願交際
(4)歓喜初後
(5)二種深信
(6)信疑決判
(7)信心正因
(8)信一念義
(9)帰命義趣
(10)タノム 
(11)所帰人法
(12)機法一体
(13)仏凡一体
(14)五重義相
(15)十念誓意
(16)六字釈義
(17)正定業義
(18)彼此三業
(19)念仏為本
(20)必具名号
(21)行一念義
(22)称名報恩
(23)即得往生
(24)平生業生
(25)正定滅度
おわりに

(11)所帰人法


 かつて宗意安心に関して、次のようなことが問題になったことがあります。
 一方の説は、阿弥陀仏に帰命するという場合と、名号を聞信するという場合とでは、同じ他力の信心ではあるけれども、そこに異なる面があるという。すなわち、名号を聞信するという場合には、名号の義(いわれ)を聞いて、これに疑い晴れることであって、名号に向かってどうかお助けくだされとお願いする心相はない。
 けれども、阿弥陀仏に帰命するという場合には、阿弥陀仏の「必ず助けるぞよ」という仰せを聞いて、これを信受すると共に、それではどうかお助けくださいませと、私の方から仏に向かってお願いする心相があるというのです。
 もちろん、仏に向かってお願いするといっても、この場合は仏の側からのよび声に応じたのであって、決して自力の欲願ではないというのであります。
 右のような説に対して、阿弥陀仏に帰命する、弥陀をたのむというふうに、仏体に対する場合には、私の方から仏に向かってお願いする心相があるというのは間違いである。弥陀に帰命するという場合でも、名号を聞信するというのと全く同じである、という説が示されました。
 そのようなことから、真宗における帰命の対象(所帰(しょき))は、阿弥陀仏という「人」であるのか、それとも名号という「法」であるのか、ということが問題になりました。その問題について論ずるのが、この「所帰人法(しょきにんぽう)」という論題であります。
 したがって、この問題のねらいは、弥陀に帰命するという場合には、私の方から仏に向かってお願いする意味があるのか、ないのかという点にあります。ですから、この問題のおこりは三業惑乱(さんごうわくらん)とは異なりますが、やはり、⑶「信願交際」、⑼「帰命義趣」、⑽「タノム・タスケタマヘ」といった論題と関連するものといえます。


 所帰人法の「所帰」とは、能帰に対する語で、帰命の対象を意味します。
 もっとも、帰命の対象といういい方は、真宗の信心についていう場合には、適切な表現ではないと思われます。というのは、真宗の信心は如来の名号願力が衆生の心に満入したすがたであって、私どもが対象としてとらえるような信心ではないからであります。しかし、説明の便宜上、能帰(帰命する側)、所帰(帰命されるもの)とを分けますと、所帰は帰命(信)の対象であるといえましょう。
 「人法(にんぽう)」というのは、「人」は私を助けてくださるお方、すなわち光明无量・寿命无量の阿弥陀仏を指し、「法」とは名号を意味します。
 そこで、「所帰人法」というのは、帰命の対象は阿弥陀仏なのか、それとも名号なのかという問題であります。いいかえますと、阿弥陀仏を信ずるのか、それとも名号を信ずるのか、ということになります。
 なお、ここで帰命の対象は仏体か名号かといっても、それは身業度生(しんごうどしょう)(仏体をもって衆生を済度する)か、名号度生(みょうごうどしょう)(名号をもって衆生を済度する)かという問題とは趣が異なるものと思われます。弥陀法は名号度生であることはいうまでもないからであります。それは『教行信証』の行巻に(真聖全二―二九)、

わが弥陀は名をもって物を接したもう。ここをもって、耳に聞き、口に誦するに、无辺の聖徳、識心に攬入す。(*)

等と示されていることによっても明瞭でありましょう。
 今は、その名号をもって衆生を済度してくださる阿弥陀仏を信ずるのか、それとも名号そのものを信ずるのか、ということが問題になっているのであります。


 ⑴「阿弥陀仏」を所帰・所信として示された文としては、『浄土論』に(真聖全一―二六九)、

われ一心に尽十方無㝵光如来に帰命したてまつる。(*)

とあり、宗祖聖人の上では、『正信偈』の初めに(真聖全二―四三)、

无量寿如来に帰命し、不可思議光に南无したてまつる。(*)

『讃阿弥陀仏偈和讃』には(真聖全二―四八六)、

真実明に帰命せよ (*)
難思義を帰命せよ (*)

等と多く示されています。  蓮如上人の『御文章』にあっては、聖人一流章に(五帖目第十通)、

一心に弥陀に帰命すれば、 (*)

末代无智章に(五帖目第一通)、

阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、 (*)

等とあります。これらは仏体で所帰・所信を示された例であります。

 ⑵「名号」を所帰・所信として示された文としては、『大経』の本願成就文に(真聖全一―二四)、

聞其名号、信心歓喜。(*)

と説かれ、『教行信証』にあっては、行巻に示された名号大行は、信巻に対しては所信となっています。これを覚如上人の『教行信証大意』には(真聖全三―五九)、

第二に真実の行というは、さきの教にあかすところの浄土の行なり。これすなわち南無阿弥陀仏なり。第十七の諸仏咨嗟の願にあらわれたり……これを信ずれば无上の極証をうるものなり。
第三に真実の信というは、かみにあぐるところの南無阿弥陀仏の妙行を真実報土の真因なりと信ずる真実の心なり。(*)

等と述べられています。蓮如上人の『御文章』では、信心獲得章に(五帖目第五通)、

信心獲得すというは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(*)

等と示されています(の)で、これらは名号で所帰・所信を示された例であります。

 このように、真宗の法は、その所帰・所信を仏体(人)でも名号(法)でも示されています。そのわけは、阿弥陀仏はそのすべての徳を名号に施し(全徳(ぜんとく)施名(せみょう))、名号は仏徳を全うじているからであります。いいかえますと、仏体が可聞(聞くことができる)、可称(称えることができる)の名号となって、私に働きかけてくださるので、その名号は仏体と別のものではありません。これを名体(みょうたい)不二(ふに)といわれます。それゆえ、所帰・所信は仏体でも、名号でもいわれるのであります。
 したがって、所帰・所信は阿弥陀仏であって、名号ではないというのも、また所帰・所信は名号であって、阿弥陀仏ではないというのも、いずれも一辺にかたよった見方であって、そのように偏執することは誤りであるといわねばなりません。そのことは、すでに前にかかげた⑴と⑵の諸文によって明らかでありましょう。


 真宗にあっては、その所帰・所信は仏体でも名号でも示されていることは、すでにうかがった通りであります。それならば、仏体を所帰とする場合の帰命には、仏の仰せを受けて、私の方から仏に向かってお助けくださいとお願いする心相がある、という領解は正しいのでしょうか。
 このような領解を「雨だれ安心」だというのを聞いたことがあります。雨だれは上から落ちてきて、地面に当たってはね返ります。「必ず助けるぞよ」という如来のおよび声を受けて、「それではどうかお助けくださいませ」と、如来に向かってお願いするというのは、ちょうど雨だれの「はね返り」に似ているということでしょう。[1]
 このような領解は誤っています。願いを求めるということは、まだ現に得ていない将来のこと(往生成仏の果)についていわれるもので、それは欲生・願生の意味であります。いま現に与えられている仏の勅命に対しては、仰せの通り信受して喜ばせていただくほかはありません。その心相を示すのが帰命であります。
 たとえば、空腹のとき、眼の前に食事を出されて、「さあ、おあがりなさい」といわれたならば、「有難うございます」と喜んで頂戴するばかりであります。その場合、「それでは、どうか食事をだしてくださいますようお願いします」という応答のしかたはありません。
 このことは、⑶「信願交際」における信と願との関係、⑽「タノム・タスケタマヘ」における「たのむ」と「ねがう」との相異について、すでにうかがった通りであります。
 宗祖は『尊号真像銘文』に、『浄土論』の「帰命……願生安楽国」を解釈されて(*)(真聖全二―五六四)、

「帰命」ともうすは、如来の勅命にしたがいたてまつるなり。……
「願生安楽国」というは、世親菩薩、かの无㝵光仏の願行を信じて(信楽・帰命)、安楽国に生まれんとねがいたまえるなり。(欲生・願生)。

と示され、同じく『銘文』に『玄義分』の六字釈の「即是帰命」と「亦是発願廻向之義」を解釈されるところ(*)(真聖全二―五六七)にも、右と同様の解釈が示されています。
 以上の通り、帰命は仏勅に信順する心相を示すものであって、名号を信楽する心相と全く変わるところはありません。したがって、仏体を所帰とする場合の帰命には、私の方から仏の方に向かってお願いする心相があるという説は、誤りであるといわねばなりません。


 真宗の所帰・所信は仏体でも名号でもいわれるので、どちらか一方に偏執すべきでない旨は既に述べました。しかし、所帰・所信の据わりと申しますか、根底と申しますか、その主となるものは名号であるといわねばなりません。
 なぜなれば、本願(第十八願)の法を浄土真宗というのであって、その本願の三心(信心)十念(称名)は、第十七願の「咨嗟称我名」の名号を承けて示されているのであり、また本願成就文には、「聞其名号、信心歓喜」と説かれているからであります。
 また、真宗法義をあらわす根本聖典である『教行信証』にあっても、第二巻に明らかにされた名号大行は、第三巻にあらわされた大信に対しては所信になっており、光寿无量の阿弥陀仏の覚体は、第四巻の証巻から開出した第五巻に出されているからであります。
 このように考えますと、名体不二であるから、所帰は仏体でも名号でもいわれるけれども、仏体を所帰として示されたものも、それは名号のいわれの中にある意味を出されたものであって、名号と別なる仏体を示されているのではありません。そうしますと、名体不二の名号が据わりであるといわねばなりません。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p127~



脚注

  1. この雨だれの喩えは、仏の全分他力の回向法のベクトルに対して衆生の側から仏へのベクトル(請求)はないということ。有難うございます、の許諾のみであるという意。