一念多念分別事
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
法然上人の門弟である隆寛律師の著作といわれている。
法然上人在世の頃より、その門下の間において、往生の行業について、いわゆる一念・多念の異説が生じ、その諍論は上人滅後にも及んだ。その諍論とは、往生は一念の信心あるいは一声の称名によって決定するから、その後の称名は不必要であると偏執する一念義の主張と、往生は臨終のときまで決定しないから、一生涯をかけて称名にはげまねばならないと偏執する多念義の主張との諍論である。
本書にはこの諍論にたいして一念に偏執したり、多念に偏執したりしてはならないということを、経釈の要文を引証して教え諭すものである。
一念多念分別事
隆寛律師作
【1】 念仏の行につきて、一念・多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これはきはめたる大事なり、よくよくつつしむべし。一念をたてて多念をきらひ、多念をたてて一念をそしる、ともに本願のむねにそむき、善導のをしへをわすれたり。
【2】 多念はすなはち一念のつもりなり。そのゆゑは、人のいのちは日々に今日やかぎりとおもひ、時々にただいまやをはりとおもふべし。無常のさかひは生れてあだなるかりのすみかなれば、風のまへのともしびをみても、草のうへの露によそへても、息のとどまり、いのちのたえんことは、賢きも愚かなるも一人としてのがるべきかたなし。このゆゑに、ただいまにてもまなこ閉ぢはつるものならば、弥陀の本願にすくはれて極楽浄土へ迎へられたてまつらんとおもひて、南無阿弥陀仏ととなふることは、一念無上の功徳をたのみ、一念広大の利益を仰ぐゆゑなり。
【3】 しかるに、いのち延びゆくままには、この一念が二念、三念となりゆく、この一念かやうにかさなりつもれば、一時にもなり二時にもなり、一日にも二日にも、一月にも二月にもなり、一年にも二年にもなり、十年、二十年にも八十年にもなりゆくことにてあれば、いかにして今日まで生きたるやらん、ただいまやこの世のをはりにてもあらんとおもふべきことわりが、一定したる身のありさまなるによりて、善導は、「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前」(礼讃)とねがはしめて、念々にわすれず、念々に怠らず、まさしく往生せんずるときまで念仏すべきよしを、ねんごろにすすめさせたまひたるなり。
【4】 すでに一念をはなれたる多念もなく、多念をはなれたる一念もなきものを、ひとへに多念にてあるべしと定むるものならば、『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説き、あるいは「乃至一念 念於彼仏 亦得往生」とあかし、あるいは「其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念 当知此人 為得大利 則是具足 無上功徳」と、たしかにをしへさせたまひたり。善導和尚も『経』(大経)のこころによりて、「歓喜至一念皆当得生彼」(礼讃)とも、「十声一声一念等定得往生」(同・意)とも定めさせたまひたるを、用ゐざらんにすぎたる浄土の教のあだやは候ふべき。
【5】 かくいへばとて、ひとへに一念往生をたてて、多念はひがことといふものならば、本願の文の「乃至十念」を用ゐず、『阿弥陀経』の「一日乃至七日」の称名はそぞろごとになしはてんずるか。これらの経によりて善導和尚も、あるいは「一心専念弥陀名号 行住座臥不問時節久近 念々不捨者是名正定之業 順彼仏願故」(散善義)と定めおき、あるいは「誓畢此生無有退転 唯以浄土為期」(同)とをしへて、無間長時に修すべしとすすめたまひたるをば、しかしながらひがことになしはてんずるか。浄土門に入りて、善導のねんごろのをしへをやぶりもそむきもせんずるは、異学・別解の人にはまさりたるあだにて、ながく三塗の巣守としてうかぶ世もあるべからず、こころうきことなり。
【6】 これによりて、あるいは「上尽一形下至十念三念五念仏来迎 直為弥陀弘誓重 致使凡夫念即生」(法事讃・下)と、あるいは「今信知弥陀本弘誓願及称名号下至十声一声等定得往生 乃至一念無有疑心」(礼讃)と、あるいは「若七日及一日下至十声乃至一声一念等 必得往生」(礼讃)といへり。かやうにこそは仰せられて候へ。
【7】 これらの文は、たしかに一念・多念なかあしかるべからず。ただ弥陀の願をたのみはじめてん人は、いのちをかぎりとし、往生を期として念仏すべしとをしへさせたまひたるなり。ゆめゆめ偏執すべからざることなり。こころの底をばおもふやうに申しあらはし候はねども、これにてこころえさせたまふべきなり。
【8】 おほよそ一念の執かたく、多念のおもひこはき人々は、かならずをはりのわるきにて、いづれもいづれも本願にそむきたるゆゑなりといふことは、おしはからはせたまふべし。さればかへすがへすも、多念すなはち一念なり、一念すなはち多念なりといふことわりをみだるまじきなり。
南無阿弥陀仏
[本にいはく、]
[建長七乙卯四月二十三日愚禿釈善信八十三歳これを書写す。]