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輪廻

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

りんね

 梵語サンサーラ(saṃsāra)の漢訳。流れるの意。車の輪が回転してきわまりないように、衆生(しゅじょう)三界(さんがい)六道(ろくどう)の迷いの世界を生れかわり死にかわりして流転すること。(尊号 P.646,真要鈔 P.968)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

日本のことわざに、知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁であるという意で「袖振り合うも多生の縁」といふように仏教の輪廻の思想は受容されていた。また「情けは人の為ならず、回りまわって己が為」といふように円環的な輪廻の時間論の上で他者への慈悲の意味を表現していた。

生死

仏教的時間論では輪廻を説くので時間は無始無終であり円環的である。キリスト教時間論では初めに神があり、世界の終焉後に人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きかを決められるという最後の審判を説くので有始有終の直線的な時間論であった。


◆ 参照読み込み (transclusion) jds:輪廻

りんね/輪廻

原語はⓈⓅsaṃsāraであり、「流れること」が原意である。仏教の興起以前に、インドでは生まれた者は生死を繰り返すという考えがあり、仏教もこれを踏襲した。車輪が廻ってとどまることを知らないことになぞらえ「輪廻」とされる。釈尊自身が輪廻を認めたかどうかは明確ではないが、最近の研究によれば、釈尊輪廻に対して否定的であったのではないかと言われている。しかしながら、仏滅後の仏教教団は明らかに輪廻を認め、輪廻を前提として教理を体系化していった。仏教世界観によれば、輪廻世界は大きく無色界色界欲界という三つに分類され、欲界の中に六道六趣)があるとされる。六道とは、下から地獄餓鬼畜生阿修羅・人・天であるが、この輪廻説に業思想が加わり、この世で善業を行えば、死後、善趣(人・天)に生まれ、悪業を行えば、死後、悪趣地獄餓鬼畜生阿修羅)に生まれると考えられるようになった。


【参考】並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』(大蔵出版、二〇〇五)


【参照項目】➡流転


【執筆者:平岡聡】