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三身

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

  • 梯實圓著 聖典セミナー『口伝鈔』p.114~


法身

 法身仏(真理そのものであるような仏)とは、一切の分け隔てを離れた仏の無分別智の領域をいい、仏陀のさとりの本体です。そこでは知る者と知られる者が一つであり、生と死、自と他、愛と憎しみ、善と悪といった二元的な対立を完全に超え、時間的・空間的な制約もありませんから、物事を対象的に捉え、分別し区別することを特徴としている言葉では表せない領域です。それを仮りに一如とも真如とも法性とも法身仏とも法性土ともいいますが、そこでは生死もなく、往来の相も離れていますから往生ということばさえもありません。

報身

 報身仏とは、菩薩が自らのさとりを完成すると同時に、一切の衆生を救済しようという誓願を起し、永劫にわたる修行によって完成された万徳円満の仏陀です。それは無量の願と徳を実現していますから永遠の"いのち"(無量寿)と、無限の智慧の光(無量光)を持っています。そのような報身仏の領域を報土といいますが、そこには菩薩であった時に誓われたとおり、真如にかなった真実の世界が実現されています。

もっとも一般には、同じ報身・報土であっても菩薩の智慧の程度に応じて、感得できる報土には上下の隔てがあると考えられていました。しかし少なくとも愛憎の煩悩を断ち切り、真如の一分をさとる智慧を開いた初地以上の菩薩 (天台宗では初住以上の菩薩) でなければ感得することができないというのが仏教の常識でした。初地とは、五十一段階に分けられる菩薩の階位の第四十一位目をいい、見惑 (邪師や邪教によって後天的に起こすようになった煩悩) とか思惑 (生まれつき持っている極めて根深い煩悩) といわれるような、無量の煩悩を断ち切って、もはや迷いの境界(三界)を輪廻転生しなくなった菩薩ですから、これ以上を聖者といいます。

このように初地以上の菩薩が、それぞれのさとりの、さとりの程度に応じて感得する報土を他受用報土(他の菩薩に受用させる報土・天台宗では実報無障礙土) といいます。仏が完成された仏界としての報土は仏陀だけが受用されますので自受用報土 (天台宗では常寂光土) と呼んで区別されていました。ですからたとえ弥勒菩薩のような最高位 (第五十一位) の菩薩であっても真実の報土 (自受用報土) は窺い知ることはできないといわれていました。このような通説を完全に破って、信心の行者が往生させていただく報土は、真実報土であって、ただ仏と仏とのみが知見することのできる無上涅槃の境界であるといい、往生はそのまま成仏であると言い切っていかれたのが親鸞聖人でした。

応身

 愛憎の煩悩を燃やし続けている凡夫や、煩悩を制御して表には現れなくなってはいるが、まだ真如をさとる智慧が開けていない修行者の心に応じて現れている仏を応身仏といいます。そのなかには人間に応じてこの娑婆(穢土)に現れて来られた釈尊のような八十歳で入滅される仏身もあります。しかしたとえば天台宗の大成者天台大師智顗(五三八ー五九七)は、『大経』や『観経』に説かれている阿弥陀仏とその浄土は、往生した凡夫に応じて示現された程度の低い「凡聖同居の浄土」であるといっています。そこでは凡夫と聖者が同居しているからですが、三身説では応身応土に当たります。同じ頃に出られた地論宗の大成者浄影寺の慧遠大師(五二三一五九二)も、『大経』や『観経』に説かれている西方浄土は、応身応土であると見なされていました。『観音授記経』などに、阿弥陀仏は長命ではあるが最終的には入滅され、その後は観世音菩薩が成仏されて極楽浄土を支えて行かれると説かれているからだといわれていました。

菩薩の修道階位

 凡聖同居の浄土(応土)に生まれた凡夫は、そこで阿弥陀仏や、観音、勢至などの大菩薩たちの指導によって修行をし、菩薩の位でいえばまず初信のくらいから十信の位を順次に上り、十住(第十一位~第二十位)、十行(第二十一~第三十位)、十回向(第三十一~第四十位)へと速やかに向上し、次第に煩悩が浄化されていきます。そして智慧と慈悲のはたらきが、勝れていくにつれて、感得する阿弥陀仏のお姿も、浄土の荘厳相も次第に勝れた様相を呈して来るようになっていきます。『維摩経』に「その心浄きに随って、仏土則ち浄し(その心が浄化するにつれて、その人の前には清らかな仏土が現れてくる)」(*)と説かれているのがそれです。ちょうど眼病が少しずつなおっていくにつれて、ものの姿がはっきりと見えてくるようなものです。 こうした三賢位の菩薩の智慧に応じて感得される仏と菩薩を方便有余土といい、勝れた応身・応土であるといわれています。しかしまだ生死を超え、自他の隔てを超えた真如を感得する智慧は獲得していませんから光明無量、寿命無量の報身仏を感得することはできないと言われています。