足の指…

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あしのゆび…

 不浄な心をもつものには瓦礫にしか見えない世界も、仏眼(ぶつげん)をもって見れば黄金の世界であることを、釈尊が足の指で地をおさえて見せられたこと。 もと『維摩経』 に出る。 (論註 P.121)


 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)
 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社)
 区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。



維摩経』仏国品では「その心、(きよ)きに随って、すなわち仏土浄し(随其心浄則仏土浄)」という。この意を舎利弗に教える為に、「仏が足の指でもって地を(おさ)(仏以足指按地)」えて、仏の感得している浄らかな仏国土を舎利弗に示現し、この苦悩渦巻く穢土も、釈尊の浄らかなさとりの眼から観(み)れば浄土(きよらかな土)であると示される。いわゆる善悪や浄穢という対立の世界は煩悩が描き出している虚妄の世界であり、煩悩を寂滅した仏のさとりの立場からみれば、全ては縁起するものであり、故に自性を持たない無自性であり、この故にあらゆる認識しうる、もの/ことは空であり、その空であることによって全ては平等であるとする。これが仏教の縁起の思想における平等という存在の視点である。これを悪しく理解すると、単純な唯心論に陥り、ただ心の持ち方によって、この世が穢土にもなり浄土にもなるという発想になる。
しかし、このような発想は、法然聖人の穢土と浄土という二元論の原則を継承した御開山からみれば、

しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す。 (信巻p.209)

であり、

惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。(真巻 P.371)

という穢土の他なる浄土を考察しない、己心の浄土、唯心の弥陀という自性唯心の立場であろう。此土(この世)という語には、彼土(かの世)という概念が内包されている。生きること、生きる意味を考察するすることは、同時に、死ぬこと、死ぬ意味を推察することでもある。浄土仏教の歴史は、その死ぬことの意味を、千数百年かけて観察し考察し推察して洞察してきたのである。生き難い此土で、愛憎煩悩に憂い悩乱し、さとりへの手がかりすらない凡夫にとって、この世を超えた煩悩の寂滅した、さとりの浄土の存在は、不安の中にありながらも不安の中で安心できる世界である。その浄土を目指し、さとりを完成しようとする生き方が浄土仏教である。

その穢土と浄土の二元論の上に「信心の智慧」によって、本願力回向による一元的な自然の浄土を感得せられたのが御開山であった。それは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん(諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念)」という、なんまんだぶの名号を聞信するところに開かれるて来る「如-来(如より来生する)」する世界であった。これが浄土を真実とする「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(御消息 P.737)である。
浄土真宗の「信心正因」とは、なんまんだぶと称えることが往生成仏の業因であると信知した者の前に開かれる、本願力回向の世界(世開)であった。それはまた、釈尊の感得せられたさとりの世界であり、なんまんだぶと声になって届いている、智慧の念仏の躍動する世界である。


『維摩経』仏国品 大正蔵経 国訳
  • 随(したが)いては、随(よ)つてと読んだ方がよいかも。

如是寶積。菩薩隨其直心則能發行。

かくの如く、宝積、菩薩は、その直心に随いて、すなわち、よく行を発(おこ)す。

隨其發行則得深心。

その発行に随ひて、すなわち深心を得。

隨其深心。則意調伏。

その深心に随ひて、すなわち意調伏す。

隨意調伏則如説行。

意の調伏に随ひて、すなわち説の如くに行ず。

隨如説行則能迴向。

説の如くに行ずるに随ひて、すなわち、よく回向す。

隨其迴向則有方便。

その回向に随ひて、すなわち方便あり。

隨其方便則成就衆生。

その方便に随ひて、すなわち衆生を成就す。

隨成就衆生則佛土淨。

衆生を成就するに随ひて、すなわち仏土浄(きよ)し。

隨佛土淨則説法淨。

仏土の浄きに随ひて、すなわち法を説くこと浄し。

隨説法淨則智慧淨。

法を説くこと浄きに随ひて、すなわち智慧浄し。

隨智慧淨則其心淨。

智慧浄きに随ひて、すなわち、その心浄し。

隨其心淨則一切功徳淨。

その心の浄きに随ひて、すなわち一切の功徳浄し。

是故寶積。若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨

この故に、宝積、もし菩薩、浄土を得んと欲せば、まさにその心を浄むべし。その心の浄きに随ひて、すなわち浄土浄し、と。


爾時舍利弗。承佛威神作是念。若菩薩心淨則佛土淨者。我世尊本爲菩薩時意豈不淨。而是佛土不淨若此。

その時に、舍利弗、仏の威神[力]を承けて、この(おもい)()さく『もし菩薩が心浄ければ、すなわち仏土浄しとならば、我が世尊、もと菩薩たりし時、意、あに不浄ならんや、しかもこの仏土の不浄なること、かくの如き。』と。

佛知其念即告之言。於意云何。日月豈不淨耶。而盲者不見。

仏、その念を知り、すなわち、これに告げて言(のたま)はく、『意に於いて云何(いか)ん。日月はあに不浄ならんや、しかも盲者は見ずとは。』

對曰不也。世尊。是盲者過非日月咎。

(こた)えて曰く、『不(いな)なり。世尊、これ盲者の過(とが)にして、日月の(とが)には非ず』と。

舍利弗。衆生罪故不見如來佛土嚴淨。非如來咎。

『舍利弗、衆生の罪の故に、如来の仏土の荘厳なるを見ず。如来の咎に非ず。

舍利弗。我此土淨而汝不見。

舍利弗、我がこの土は浄けれど、汝は見ず』と。

爾時螺髻梵王語舍利弗。勿作是意。謂此佛土以爲不淨。所以者何。我見釋迦牟尼佛土清淨。譬如自在天宮。

その時、螺髻梵王、舍利弗に語(かたる)らく、『この意を作して、この仏土を謂(おもう)て、もつて不浄と為すことなかれ。所以は何ん。我、釈迦牟尼仏の土を見るに、清浄なること、譬えば、自在天宮の如し』と。

舍利弗言。我見此土。丘陵坑坎荊蕀沙礫。土石諸山穢惡充滿。

舍利弗言わく、『我、この土を見るに、丘陵・坑坎・荊棘・沙礫・土石・諸山・穢悪充満せり』と。

螺髻梵言。仁者心有高下。不依佛慧故。見此土爲不淨耳。

螺髻梵言わく、『仁者(なんじ)が心に、高下あり。仏慧に依らざるが故に、この土を見て、不浄と為すのみ。

舍利弗。菩薩於一切衆生。悉皆平等。深心清淨。依佛智慧則能見此佛土清淨。

舍利仏よ、菩薩は一切の衆生に於いて、悉く皆平等なり。深心清浄にして、仏慧に依れば、すなわち、よくこの土の清浄なるを見る』と。

於是佛以足指按地。即時三千大千世界若干百千珍寶嚴飾。譬如寶莊嚴佛無量功徳寶莊嚴土。

ここにおいて、仏、足の指を以つて、地を(おさ)えたまえば、即時に三千大千世界は、若干(そこばく)の百千の珍宝厳飾すること、譬えば、宝荘厳仏の無量功徳宝荘厳土のごとし。

一切大衆歎未曾有。而皆自見坐寶蓮華。

一切の大衆、未曾有(みぞう)を歎じ、しかもみな自ら宝蓮華(の座に)に坐するを見る。

佛告舍利弗。汝且觀是佛土嚴淨。

仏、舍利弗に告げたまわく、『汝、且(しばら)く、この仏土の厳浄なるを観よ』と。

舍利弗言。唯然世尊。本所不見。本所不聞。今佛國土嚴淨悉現。

舍利弗言わく、『唯(ただ)、しかり世尊、もと見ざる所、もと聞かざる所なり。今、仏国土の厳浄なること、悉く現る』と。

佛語舍利弗。我佛國土常淨若此。爲欲度斯下劣人故。示是衆惡不淨土耳。

仏、舍利弗に語りたまわく、『我が仏国土、常に浄きことかくの如し。この下劣の人を度せんと欲するが為の故に、この衆悪、不浄の土を示すのみ。

譬如諸天共寶器食隨其福徳飯色有異。

譬えば、諸天の、宝器を共にして食するも、その福徳に随ひて、飯の色に異あるがごとし

如是舍利弗。若人心淨便見此土功徳莊嚴。

かくの如く舍利弗、もし人の心浄ければ、すなわち、この土の功徳荘厳を見ん』

當佛現此國土嚴淨之時。寶積所將五百長者子皆得無生法忍。八萬四千人皆發阿耨多羅三藐三菩提心。

仏、この国土の厳浄なるを現したもう時に当たりて、宝積の将(ひき)いる所の五百の長者子、皆無生法忍を得、八万四千の人はみな阿耨多羅三藐三菩提心を発す。

佛攝神足。於是世界還復如故。

仏、神足を摂(おさ)めたまふ。ここに於いて世界、また(還)故(もと)の如く復す。

求聲聞乘三萬二千天及人。知有爲法皆悉無常。遠塵離垢得法眼淨。

声聞乗を求むる三万二千の天および人、『有為法は皆悉く無常なり』と知り、塵を遠ざけ、垢を離れ、法眼の浄を得。

八千比丘不受諸法漏盡意解。

八千の比丘、諸法を受けずして、漏尽き、意解す。