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如来とひとし

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

如来とひとし 如来と等し 与諸如来等(もろもろの如来と等し)

御開山は「信巻」信楽釈で『華厳経』入法界品の結論である偈を引文されて、

聞此法歓喜 信心無疑者
この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものは [1]
速成無上道。与諸如来等。(入法界品)
すみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。(信巻 P.237)

と、真実信心の徳を「もろもろの如来と等し」とされておられる。御消息では、門弟の問いに答えて、

これは『経』の文なり。『華厳経』にのたまはく、「信心歓喜者与諸如来等」といふは、「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり。「もろもろの如来とひとし」といふは、信心をえてことによろこぶひとは、釈尊のみことには、「見敬得大慶則我善親友」(大経・下)と説きたまへり。また弥陀の 第十七の願には、「十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚[2]大経・上)と誓ひたまへり。願成就の文(同・下意)には、「よろづの仏にほめられ、よろこびたまふ」(意)とみえたり[3]。すこしも疑ふべきにあらず。これは「如来とひとし」といふ文どもをあらはししるすなり。 (消息 P.759)

とされ、本願を信楽するものは、諸仏と等しいとされておられる。

御開山は晩年に、御消息で関東の門弟に盛んにこの如来弥勒等同説を説かれる。摂取不捨の経語の上からは弥勒と同じ徳を受けているのであり、それは如来と等しいとされるのであった。愚直に本願を信じ念仏申している関東の門弟の尊厳性をあらわす意であったのであろう。
なお、等しいと同じは違う概念であることに留意。弥勒とは同じであるが決して如来と同じとはされなかった。等と同を使い分けておられるのである。ともあれ真実信心の念仏者の尊厳をあらわす語が「便同弥勒」と「与諸如来等」という語なのであった。

(94)
信心よろこぶそのひとを
 如来とひとしとときたまふ
 大信心は仏性なり
 仏性すなはち如来なり  (浄土 P.573)

(27)
念仏往生の願により
 等正覚にいたるひと
 すなはち弥勒におなじくて
 大般涅槃をさとるべし  (正像 P.605)

(28)
真実信心うるゆゑに
 すなはち定聚にいりぬれば
 補処の弥勒におなじくて
 無上覚をさとるなり  (正像 P.605)

正定聚
便同弥勒
聞此法歓喜信心無疑者 速成無上道与諸如来等

  1. 通常は「この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん」と読むのだが、御開山は、「この法を聞きて〔如来の〕信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」と読まれた。
  2. なんまんだぶ、と如実に讃嘆することにおいて、諸仏と徳を等しくするという意か。
  3. 梯實圓和上は、この一段を「全ての仏様方が阿弥陀様のお徳をほめたたえ、また全ての念仏者が仏様の名をほめたたえる。そして仏様のみ名を称える相を見て如来様は喜んで下さる。「よく念仏する身になってくれたな。よく私を親と呼んでくれたな」と言って如来様が喜んで下さるという事なのです。」と言われておられた。なんまんだぶ、なんまんだぶ、ありがたいことである。