念仏者は…

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ねんぶつしゃは

 念仏の行者は無碍の一道(何ものにもさまたげられないひとすじの道)を歩む者という意。「念仏者は」の「は」を「者」に添えた訓(よ)み仮名とみて、「念仏は」と読む説がある。

その場合、念仏は無碍の一道であるという意になるが、いずれにしても念仏の法が無碍道であるから、念仏者は無碍者であることを明かしているのである。(歎異抄 P.836)


 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)
 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社)
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者は、「シャ」と漢字音で読んだ場合は、上にある語を名詞化する場合に使われる。人物・事物などを主語として、~する人、~するものをいう。例:念仏者(ねんぶつ-しゃ)。
また、者は漢文訓読では、主語を示す助辞としても使われ、和語で〔……は〕と訓(よ)む。例:念仏者(ねんぶつ-は)。 なお漢文訓読では者を、「…と言うわけ」という意味で「者」を接続詞として、てえり・てえれば(と言えればの音変化)、などと訓ずることもある。
『歎異抄』の当面では、念仏者(ねんぶつ-しゃ)という念仏する者という意味であろうが、御開山が「行巻」の一乗海釈で「一切の無碍人、一道より生死を出でたまへり。一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。一心一智慧なり」(*)と、『華厳経』の「無碍」の語を考察されておられる意から推察すれば、念仏者(ねんぶつ-は)無碍の一道なりという、万人をさとらしめる行法の意であろう。なんまんだぶという、口に称える可聞可称の行業が、無始以来の無明の闇を破する往生浄土のさとりへの教えであった。


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