愛
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
あい
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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あい 愛
- Ⅰ 梵語トリシュナー ( tṛṣṇā) の意訳。むさぼり
執着 すること。十二因縁の第八支。喉が渇いているものが水を求めてやまないように、あらゆる欲望を満たそうとする心であることから、渇愛 とも呼ばれる。貪愛 、愛欲、恩愛などと熟語する。『往生要集』(七祖 1054) には、臨終におこる愛として三愛を説く。
- Ⅱ ねがい、いつくしむ心。
愛楽 、慈愛などと熟語する。(浄土真宗辞典)
- 現代日本ではキリスト教の影響からか「愛」といふ言葉はポジティブ(肯定的)な意味だが、仏教上では三毒煩悩に貧愛とあるように「愛」とはネガティブ(否定的)な概念である。日本の近代でも愛は性愛の意とされ欲愛の男女の煩悩とされていた。[1]
古層に属する仏典である「ブッダの真理のことば(ダンマパダ)」第十六章には、
- 210、 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
- 211、 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。
- 212、 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
- 213、 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか? (岩波文庫 中村元著)
とあるように、仏教においては「愛」という語は迷いの根源として、渇愛、貪愛、痴愛、恩愛などと熟語されて否定的に把握される。明治時代までは愛という語は「性愛」として理解されていたのも仏教からの影響であろう。近代に入り、西洋での語義としての愛(love〔エロスやアガペー〕)という概念が導入され多用な用法が生まれ、愛という語は肯定的にとらえられるようになった。神を一神教の人格神として把握する西欧思想の影響であろう。
もちろん仏教でも愛という語を、愛語、仁愛などと肯定的に使う場合もあるのだが、この場合は仏・菩薩からの苦悩の衆生への慈悲のまなざしをいう語である。
なお、仏教では生死煩悩からの解脱としてのさとりの智慧を目指すので、他者との関係については「慈」と「悲」の三種の三縁をあげ、智慧による無縁の大悲を説く。→三縁
- オンライン版 仏教辞典より転送
愛
tṛṣṇā तृष्णा、kāma काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह (S)
anunaya
苦しむ生きものを救済することを願って、かれらを愛し慈しむ菩薩の愛。
- 諸の有情を愛す
iṣṭa
好ましい。心にかなう。愛と非愛、愛と不愛と、対のかたちで用いられることが多い。
思は能く愛と非愛の果を感ずる勢力は最勝なり。
浄と不浄の業が三界の諸行に薫習するに由って、愛と不愛の趣の中に於て愛と不愛との自体を牽引す。
tṛṣṇā तृष्णा
人間の最も根源的な欲望。tṛṣṇāの原義は「渇き」であり、人がのどが渇いているときには、水を飲まないではいられないような衝動があり、それにたとえられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在している。そこでtṛṣṇāを「愛」とか「渇愛」と訳し、ときには「恩愛」とも訳す。
喉の渇いた人が水を欲しがるような激しい欲望、盲目的な衝動、満足するまでやまない激しい欲望、妄執をいう。
広義には煩悩を意味し、狭義には貪欲と同じ意味である。
- 貌(かたち)に好醜あり。是れによりて慢を長じ愛を育す。剃髪し壊色(ゑじき)の衣を著するは慢を伏し愛をやむるのすがたなり 〔慈雲短篇法語〕
愛は十二因縁に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。
十二支縁起の一契機としての愛。十二支縁起のなかの第8番目の契機。『倶舎論』の三世両重の因果説によれば、妙なる生活道具を貪り、性的欲望を生じるが、いまだ広範囲に追求することがない段階をいう。
- 貧妙資具婬愛現行、未広追求、此位名愛。〔『倶舎』9,T29-48c〕
kāma काम
kāmaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。
貪ること。執着すること。具体的には、たとえば、自己(我)、生活道具(資具)、男女の交わり(婬)、他者・事物・環境(境)、来世に再び生まれること、来世は虚無になること、などに執着し貪ること。過去・現在・未来にわたって苦を生じる原因となる。貪愛、渇愛ともいう。
仏教では、性愛については抑制を説いたが、後代の真言密教になると、男女の性的結合を絶待視するタントラ教の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会を涅槃そのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。密教が空海によって日本に導入されたときは、この傾向は払拭されたが、平安末期に立川流が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。性愛を表すのに、愛染という語も、この流れであり、しばしば用いられる。
preman प्रेमन्、sneha स्नेह
preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。
子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもってすべての人々を助けるように働きかけるのが、菩薩の理想である。
一切衆生に対する愛情の純粋化・理想化されたものを慈悲という。それは仏に成就しているが、一般の人々にも多かれ少なかれ実践できる。
〔大毘婆沙論巻29〕には、汚れた愛と汚れのない愛との二種があり、前者は貪、後者は信であるという。
〔大智度論巻72〕には、欲愛・法愛の二愛を説いている。欲愛とは妻子などを愛念する貪欲であり、法愛とは一切衆生を慈愛する慈悲心である。
漢語での愛
漢語としての「愛」は、「いつくしむ」「あわれむ」「したしむ」「気にいる」「したう」「恋する」「めでる」「情けをかける」といった意味の言葉であり、決して否定的な意味合いを持つものではないが、とくにキリスト教の「神の人に対する愛」「人の神への愛」「兄弟愛」を意味するアガペーが「愛」と翻訳されたことによって、非常に高い価値を持つ言葉となった。
しかし、仏典での「愛」は仏教のもっとも基本的な教えである十二因縁や四諦説においてもこの世の苦しみの根源となる煩悩の最たるものをさし、いわばキリスト教の「愛」とは対極にある、反価値的なるものを意味する言葉であった。「愛染」「愛執」の愛はこの意味であって、貪りほっすることにとらわれることや、貪り欲することから起こる執着を意味している。
- ↑ キリスト教の愛にも、エロス(情欲的な愛)とアガペー(無償の愛)の違いがあるとされる。