本覚
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ほんがく
心は本来、仏のさとりの性をそなえているということ。 (要集 P.1049)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ほんがく 本覚
煩悩に覆われて迷っている状態(不覚)にもかかわらず、本性として本来的にさとりの性質をもっているということ。これに対して無始より有する迷いを滅することを
御開山は、「真仏土文類」で飛錫(ひしゃく)の『念仏三昧宝王論』よりの引文として『大乗起信論』を用い(真巻 P.371)、「化身土文類」で外道の三昧を示す為に『大乗起信論』を引文されておられる。(化巻 P.455)
- →本覚思想
- →自性唯心
- →己身の弥陀唯心の浄土
- →大乗起信論
- →トーク:本覚
参照➡WEB版浄土宗大辞典の「本覚思想」の項目
参照➡WEB版浄土宗大辞典の「相対的二元論・絶対的一元論」の項目
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:本覚・始覚
ほんがく・しかく/本覚・始覚
本覚とは本来的に衆生には自覚の性質があることで、始覚とは自覚していない衆生が始めて自覚に至ること。『起信論』が初出。『起信論』では「心真如門」において仏の法身が真如の智慧そのものであることを示す。「心生滅門」では一転していかに衆生が無明による生滅流転の状況にあるかを示すが、その際のキーワードは阿梨耶識である。そして、その阿梨耶識は法身・如来蔵を内容とする覚と無明に流れる不覚の両面を併せ持つ。その覚が本覚と始覚に分かれる。本覚は真如にも通じる法身・如来蔵そのものと言ってもよい本来性であり、始覚はその本来性が不覚の妄念に妨げられて自覚されないものを修行により始めて自覚すること。このように『起信論』においては本覚と始覚に加えて不覚が重要な要素である。三細六麤により不覚が説明されるが、それは五意や六染とも関連し、本覚・始覚の対応以上に不覚が丁寧に説示される。この不覚をいかに始覚から本覚に深め、心真如門の法身を実現するかが『起信論』の眼目である。
この『起信論』の思想は中国の諸注釈書により、さまざまに変容された。浄影寺慧遠は真心・妄心の二心を中心に八識説を展開し、新羅の元暁は一心観に徹し、法蔵は如来蔵縁起と把握する。この流れには本覚・始覚の対応は問題となっていない。宗密が『円覚経』を重視し、「円覚」が強調され、経文の一句「本来成仏」が最高の成仏論として展開された。そこで円覚を中心に不覚・始覚・本覚が宗密教学の骨格を形成する。本覚・始覚が対応して用いられ、本覚門・始覚門という用語が機能するのは日本仏教においてである。特に天台本覚法門の存在が鎌倉時代に成立した新仏教の基盤になったのか、あるいは批判対象であったかが、議論になっている。その議論は『起信論』に直接するよりも、むしろ『釈摩訶衍論』なども関連した密教教学を背景としている。この論を空海が重視したが、空海以降は安然あたりから天台宗でも大いに依用された。天台密教(略して台密)の中で中国の宗密が主張した本来成仏と同類の本覚思想が成立した。最澄に託されて『本理大綱集』が成立し、源信に仮託されて『本覚讃釈』などの天台本覚思想の書物が一二世紀から一三世紀にかけて出現する。道元が天台本覚法門を継承した、あるいはそれを批判したとの論争もある。法然の教学を同じように議論することも可能であるが、この本覚・始覚の対応で教学を決着する発想そのものの根拠を明らかにする必要がある。
【参考】多田厚隆他編『天台本覚論』(『日本思想大系』九、岩波書店、一九七三)、袴谷憲昭『本覚思想批判』(大蔵出版、一九八九)、末木文美士『鎌倉仏教展開論』(トランスビュー、二〇〇八)
【執筆者:吉津宜英】