首楞厳経

出典: 浄土真宗聖典プロジェクト『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
移動先: 案内検索

しゅりょうごんきょう

1.『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経(だいぶつちょう-にょらい-みついん-しゅしょうりょうぎ-しょぼさつ-まんぎょうしゅ-りょうごんきょう)』のこと。十巻。唐の般刺密帝(はらみてい)訳。疑経ともいわれる。首楞厳は梵語シューランガマ(śūraſgama)の音写で、一切事究竟堅固(いっさいじくきょうけんご)と漢訳し、三昧の名。『教行信証』には修行と摩障(ま-しょう)の関係を説くのに引用され、また第五巻に二十五聖の円通(えんずう)が説かれてあり、その中の第二十四に大勢至菩薩念仏円通を説き明かす。 (浄土 P.576, 尊号 P.647, 化巻 P.453) 


2.『首楞厳三昧経(しゅりょうごん-ざんまいきょう)』のこと。二巻。後秦の鳩摩羅什訳。仏が、堅意(けんい)菩薩が菩提をすみやかに得る法を問うたのに対してこの三昧を説き、また舎利弗が魔境を遠離(おんり)する道を問うたのに対して、魔境を現してこれを退治して証明せられたことを説いた経典である。


 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)
 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社)
 区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。


インクルードノート
太字は、親鸞聖人が『尊号真像銘文』(*)で引文されておられる。また『浄土和讃』「勢至讃」(*)で、以下の、勢至獲念仏円通を讃詠されておられる。和讃末尾の注記に「源空聖人御本地なり。」とあるように、法然聖人を讃嘆されたもの。親鸞聖人は、智慧第一にして勢至菩薩の生まれ変わりと称せられた法然聖人から念仏の道を聞信され、念仏によって(まどか)な悟りに達することを感佩されておられる。

大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經卷第五
国訳

▼勢至獲念仏円通 

勢至念仏円通を獲たり。

大勢至法王子。與其同倫 五十二菩薩 即從座起。頂禮佛足 而白佛言。我憶往昔 恒河沙劫。有佛出世 名無量光。

大勢至法王子、その同倫(おなじともがら)の五十二菩薩と、すなはち座より起ち、仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく、われ往昔を憶ふに、恒河沙劫に仏ありて世に出でます。無量光と名づく。

十二如來 相繼一劫。其最後佛 名超日月光。

十二の如来、一劫にあひ継ぎ、その最後の仏を超日月光と名づく。

彼佛教我 念佛三昧。

かの仏、われに念仏三昧を教へたまふ。

譬如有人 一專爲憶 一人專忘。

たとえば、人ありて、一は專ら憶を為し、一人は專ら忘るるごとし。

如是二人 若逢不逢 或見非見。

かくのごときの二人、もしは逢い(もしは)逢わず、あるいは見、(あるいは)見ること非ず。

二人相憶 二憶念深。如是乃至從生至生。同於形影 不相乖異。

二人あい憶うて二の憶念深ければ、かくのごとく乃至して、生より生に至るに、形と影とに同じくして、あい乖き異らず。

十方如來 憐念衆生 如母憶子。

十方の如來、衆生を憐念すること母の子を憶ふがごとし。

若子逃逝 雖憶何爲 子若憶母如母憶時。母子歴生不相違遠。

もし子、逝き逃れ、憶ふといえども何かせん。子もし母を憶すれば母の〔子を〕憶ふ如くなる時は、母と子、生を歴(ふ)るとも相違遠せず。

若衆生心憶佛念佛。現前當來必定見佛 去佛不遠。不假方便自得心開。

もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前にも当来にも必定して仏を見たてまつり、仏を去ること遠からずして、方便をからずして、おのづから心開かるることを得ん。

如染香人 身有香氣。此則名曰香光莊嚴。我本因地以念佛心 入無生忍。今於此界 攝念佛人歸於淨土。

染香人の身に香気あるがごとし。これすなはち名づけて香光荘厳といふ。我もと因地にして、念仏の心をもつて無生忍に入る。いまこの界において、念仏の人を摂して浄土に帰せしむ。

佛問圓通 我無選擇 都攝六根淨念。相繼得三摩地 斯爲第一。

仏、円通を問ひたまふ、我、選択すること無く、すべて六根を摂し、浄念あい継ぎて三摩地を得る、これを第一と為す。

大佛頂萬行首楞嚴經卷第五


化巻 P.453 での首楞嚴經文中引文箇所は下記リンク参照
[大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經 卷第六]


転送