十劫久遠
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
数々成仏 説考
梯實圓和上の『鮮妙師の宗学』から一部抜粋
六
親鸞聖人は「和讃」のなかでしばしば久遠実成の阿弥陀仏に言及される。十劫正覚の阿弥陀仏は、そのまま久遠実成の仏であるといわれるわけだが、その十劫と久遠の関係について鮮妙師は特色のある
鮮妙師の講録をみていると、
方便法身とは、因果相を示現しているものなのだから、当然因願に報いて十劫以前に成仏された果仏である。その意味で報身仏なのだが、報身仏は、一般的にいって有始無終という性格をもっている。即ち成仏のはじめがあるから有始であり、その正覚は真如の理に冥じて無量寿であるから無終である。ところがその有始の方便法身が久遠実成であるというのはどういうことか。
すでにのべたように鮮妙師によれば、阿弥陀仏とは、一般的に考へられるような、凡夫が成仏した従因至果の始成正覚(始覚)の仏ではない。真如法性の覚体(本覚)が、衆生の無明を破るために垂名示形し、因果相を示現した従果降因の相であり、果後の方便相である。しかも方便法身の因果において法性法身の徳があらわれるのであって、方便法身となって具現していなければ法性法身も有名無実である。鮮妙師が真如即弥陀という所以である。方便法身とならない法性法身はないとすれば、法性法身が無始無終の永遠であるごとく、十劫正覚の方便法身の因果示現も無始以来のものでなければならぬ。
即ち法性法身が、三世をこえて三世をつつむ永遠ならば、それはあらゆる時間のなかにみずからの徳相としての方便法身を影現していなければならぬ。無限の過去から、尽未来際にいたるまで、どの時間(どの今)にも法性法身の示現としての十劫正覚の弥陀がましますとすれば、無限の過去においても、十劫仏としての方便法身がなければならぬ。この道理を久遠実成の弥陀というのである。かくて十劫正覚の方便法身は十劫であるままが久遠、久遠のままがつねに十劫正覚であるといわねばならぬ。これを十久相即というのである。鮮妙師はこのような十劫を単の十劫にして、常演(??)と弥陀の赴機をかねた十劫であるという。
ところで時間は、具体的にはいつも一人一人の現在を中心として、一人一人の過去、未来が成立している。しかもわれわれの現実は無明煩悩の凡夫である。一人一人、みづからの虚妄分別によって、各々の業感の世界を形成している。無明の現実を中心に展開する私の時間は、過去は無始流転の業苦の因果であり、未来は出離の縁あることなき輪転の未来でしかない。このような一人一人各別の業感の世界に影現していくのが方便法身である。即ち一人一人を縁として、発願成道がなされ、一人一人の無明の大夜を救うべく十劫の昔に浄土に影現したまうのが阿弥陀仏である。
久遠の過去の機には、久遠の発願成道が、未来の機には、未来の発願成道が、現在の機には現在の発願成道がなされていなければならぬ。一人一人を機とし、縁として、一人一人に一一の願行が、一一の十劫正覚が無窮に示現せられていく。これを一人一人の為の
もちろん数々成仏ということは、一々の機縁にのぞめて影現するという方便法身の性格をあらわしているのであって阿弥陀仏が多数に実在するとか、別仏があるということではない。第十八願成就の仏として十劫正覚は唯一仏である。しかも一仏のままが一々の機縁に対応して一切仏であり、一切仏のままが唯一仏なのである。一即一切、一切即一、久遠即十劫、十劫即久遠なるものが弥陀の果海なのである。
かくて一人一人の業因縁に対応して発願成道したまう大悲の仏であるから、親鸞聖人は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異鈔)と領解されたのであった。南無阿弥陀仏とはこのような一人一人の救いを成就されたすがたであるから「十方衆生の機ごとに、願行成就せしとき、仏は正覚をなり、衆生は往生せしなり」(安心決定抄)[1]ともいわれるのである。
- ↑ 現行の『安心決定鈔』には「面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。」(安心決定 P.1389) とある。