十劫久遠
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
じっこう-くおん 十劫久遠
阿弥陀仏の成仏について、十劫の昔であったか久遠の昔であったかを論じることをいう。この論題が提起されたのは、『大経』には
- 「仏のたまはく、成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり」 (註 28)
等と説かれ、十劫の昔に成仏した阿弥陀仏が示される一方、『浄土和讃』には
- 「いまに十劫とときたれど 塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ」 (註 566)
と、阿弥陀仏は久遠の昔からすでに成仏していたとも示されていることによる。これについて、存覚は 『浄土真要鈔』(註 969) において、『大経』に説かれる法蔵菩薩の発願修行、十劫の昔の成道の相は、久遠の昔に成仏した阿弥陀仏の衆生を救う果後の方便であるとする。(浄土真宗辞典)
◆ 参照読み込み (transclusion) ノート:久遠実成
御開山の晩年(80~)の仏身・仏土観は『論註』の
- 「そこでは知る者と知られる者が一つであり、生と死、自と他、愛と憎しみ、善と悪といった二元的な対立を完全に超え、時間的・空間的な制約もありませんから、物事を対象的に捉え、分別し区別することを特徴としている言葉では表せない領域です。」(梯實圓著 聖典セミナー『口伝鈔』p.114~)
といわれるように、 あらゆる限定や時間を超えた人間の認識を超越したものであった。それを『一念多念証文』で、
と、一如宝海(一如法性)より「かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふ」のが方便法身としての報身である阿弥陀仏だとされておられる。
この二種法身説以前には『法華経』による久遠実成説を「浄土和讃」で、
とされたり『諸経讃』に、
と、「久遠実成」の阿弥陀如来として、かって学んだ天台法華の塵点久遠劫という『法華経』の語を用いて「如来常住 悉有仏性」という無始無終の大乗仏教の理を示しておられた。