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「仏説 観無量寿経-漢文」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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是為像想 名第八観。<br>
 
是為像想 名第八観。<br>
 
作是観者 除無量億劫 生死之罪 '''於現身中得念仏三昧'''。<ref>「[[於現身中…|於現身中得念仏三昧]]」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。(十三文例)。<br>
 
作是観者 除無量億劫 生死之罪 '''於現身中得念仏三昧'''。<ref>「[[於現身中…|於現身中得念仏三昧]]」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。(十三文例)。<br>
◇定観成就の「真身観」の直前で、「於現身中得念仏三昧」と説かれているのは、定観が成就して得られる利益は念仏三昧であるされる。この念仏三昧は『観経』の当面では観仏三昧のことである。三昧とはサマーディ(samādhi)の音写で、精神を統一し安定させることであるから三昧といわれるのであり観想の観仏三昧のことである。しかし御開山は、この定観(真身観)が成就すれば阿弥陀仏の真身が見える。真見が見えたら「一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」(一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)という「念仏衆生摂取不捨」ということが判る。この念仏とは善導大師によれば称名(なんまんだぶ)である。そうすると定観成就の益とは、称名念仏している者が摂取されているという事が判ることである。すると定観は必要ではなかったという事が判り、実は定観は不必要であるということが定観の益であるということになる。このことを「定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とする」とされたのである。<br>
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◇定観成就の「真身観」の直前で、「於現身中得念仏三昧」と説かれているのは、定観が成就して得られる利益は念仏三昧であるされる。この念仏三昧は『観経』の当面では観仏三昧のことである。三昧とはサマーディ(samādhi)の音写で、精神を統一し安定させることであるから三昧といわれるのであり観想の観仏三昧のことである。しかし、法然聖人は「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす」の文を、観仏と口称の念仏(なんまんだぶ)を説く意であるとされた。それは『観経疏』の流通分に「仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」とある文から『観経』を逆観されたからであった。<br>
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それを承けられた御開山は、この定観(真身観)が成就すれば阿弥陀仏の真身が見える。真身が見えたら「一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」(一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)という「念仏衆生摂取不捨」ということが判る。この念仏とは善導大師によれば称名(なんまんだぶ)である。そうすると定観成就の益とは、称名念仏している者が摂取されているという事が判ることである。すると定観は必要ではなかったという事が判り、実は定観は不必要であるということが定観の益であるということになる。このことを「定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とする」とされたのである。<br>
 
このような見方は善導大師が、『観経』の結論である「流通分」で「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」とされたことや、「玄義分」p.305で「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす」と、一経に観仏三昧の法と念仏三昧の法が説かれているとされていたことに示唆されたのであろう。
 
このような見方は善導大師が、『観経』の結論である「流通分」で「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」とされたことや、「玄義分」p.305で「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす」と、一経に観仏三昧の法と念仏三昧の法が説かれているとされていたことに示唆されたのであろう。
 
念仏が称名であることは、善導大師が、この「真身観」中の以下の釈で判る。<BR>
 
念仏が称名であることは、善導大師が、この「真身観」中の以下の釈で判る。<BR>
「自余の衆行はこれ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比校にあらず。このゆゑに諸経のなかに処々に広く念仏の功能を讃めたり。 『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす。 また『弥陀経』のなかのごときは、一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と。 また十方恒沙の諸仏の証誠虚しからずと。 またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。 この例一にあらず。 広く念仏三昧を顕しをはりぬ」p.432。<br>
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「自余の衆行はこれ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比校にあらず。このゆゑに諸経のなかに処々に広く念仏の功能を讃めたり。 『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす。 また『弥陀経』のなかのごときは、一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と。 また十方恒沙の諸仏の証誠虚しからずと。 またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。 この例一にあらず。 広く念仏三昧を顕しをはりぬ」([[観経疏 定善義 (七祖)#P--437|定善義 P.437]])<br>
名号を念じるのであるから明らかに称名念仏のことである。御開山は『観経』の教説に真仮を見られ、「またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。」「化巻」p.392と、『観経』の真実義は、無量寿仏が念仏す者を摂取不捨されることであるとされるのであった。念仏衆生摂取不捨ということは常人にはほぼ不可能な定善観が完成して初めて判ることなのだが、我々はこれを七祖の伝統の上で、御開山からお聞きするのである。これを見聞一致といい、聞くことは見(知ること)であり信知であり、これを聞見というのである。なお、聞見という言葉は「真仏土巻」で「もし観察して知ることを得んと欲はば、二つの因縁あり。一つには眼見、二つには聞見なり」とある。</ref><br>
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名号を念じるのであるから明らかに称名念仏のことである。御開山は『観経』の教説に真仮を見られ、「またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。」([[化巻本#P--393|化巻 P.393]]と、『観経』の真実義は、無量寿仏が念仏す者を摂取不捨されることであるとされるのであった。念仏衆生摂取不捨ということは常人にはほぼ不可能な定善観が完成して初めて判ることなのだが、我々はこれを七祖の伝統の上で、御開山からお聞きするのである。これを見聞一致といい、聞くことは見(知ること)であり[[信知]]であり、これを[[聞見]]というのである。なお、聞見という言葉は「真仏土巻」で「もし観察して知ることを得んと欲はば、二つの因縁あり。一つには眼見、二つには聞見なり」とある。</ref><br>
 
====[[観経疏 定善義 (七祖)#真身観|真身観]]====
 
====[[観経疏 定善義 (七祖)#真身観|真身観]]====
 
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参 考:以下の(十三文例)とは、「化巻」p.382で顕彰隠密の義をあらわす例として十三文を釈しておられることを指す。
 
参 考:以下の(十三文例)とは、「化巻」p.382で顕彰隠密の義をあらわす例として十三文を釈しておられることを指す。
 
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2019年11月12日 (火) 10:21時点における最新版

各標題は『観経疏』の科段に、科段の番号は「註釈版」の読み下し文にリンクしています。

仏説観無量寿経

仏説観無量寿経

   宋元嘉中 畺良耶舎訳

序分

発起序

(1)
如是我聞。一時仏在王舎城耆闍崛山中。
与大比丘衆 千二百五十人倶。
菩薩三万二千。文殊師利法王子而為上首。

禁父縁

(2)
爾時王舎大城 有一太子。名阿闍世。
随順調達悪友之教 収執父王頻婆娑羅 幽閉置於七重室内 制諸群臣一不得往。
国大夫人 名韋提希。恭敬大王 澡浴清浄 以酥蜜和麨用塗其身 諸瓔珞中盛蒲桃漿 密以上王。

時大王 食麨飲漿 求水漱口。
漱口畢已 合掌恭敬向耆闍崛山 遥礼世尊而作是言 「大目犍連 是吾親友。願興慈悲 授我八戒」。
時目犍連 如鷹・隼飛 疾至王所。日日如是 授王八戒。
世尊亦遣尊者富楼那 為王説法 如是時間経三七日 王食麨蜜 得聞法故顔色和悦。

禁母縁

(3)
時阿闍世 問守門者 「父王今者猶存在耶」。
時守門人白言 「大王 国大夫人 身塗麨蜜 瓔珞盛漿 持用上王。
沙門目連及富楼那 従空而来 為王説法 不可禁制」。
時阿闍世 聞此語已 「怒其母曰 我母是賊。与賊為伴。沙門悪人。 幻惑呪術 令此悪王多日不死」。
即執利剣 欲害其母。
時有一臣 名曰月光。聡明多智。及与耆婆為 王作礼白言。
「大王 臣聞毘陀論経説 劫初已来 有諸悪王 貪国位故 殺害其父 一万八千。未曾聞有 無道害母。王今為此殺逆之事 汚刹利種。臣不忍聞。是栴陀羅。不宜住此時」。

二大臣説此語竟 以手按剣 却行而退。
時阿闍世 驚怖惶懼告耆婆言。「汝不為我耶」。
耆婆白言 「大王慎莫害母」。
王聞此語 懺悔求救。即便捨剣 止不害母。勅語内官 閉置深宮不令復出。

厭苦縁

(4)
時韋提希 被幽閉已 愁憂憔悴。
遥向耆闍崛山 為仏作礼而作是言 「如来世尊在昔之時 恒遣阿難来慰問我。 我今愁憂。世尊威重 無由得見。願遣目連 尊者阿難与 我相見」。
作是語已 悲泣雨涙 遥向仏礼。
未挙頭頃 爾時世尊 在耆闍崛山 知韋提希心之所念 即勅大目犍連 及以阿難 従空而来 仏従耆闍崛山 没於王宮出。
時韋提希 礼已挙頭 見世尊釈迦牟尼仏。
身紫金色 坐百宝蓮華 目連侍左阿難在右。釈梵護世諸天在虚空中 普雨天華持用供養。

時韋提希 見仏世尊 自絶瓔珞挙身投地 号泣向仏白言 「世尊 我宿何罪生此悪子。世尊復有何等因縁 与提婆達多 共為眷属。

欣浄縁

(5)
唯願世尊 為我 広説無憂悩処。我当往生。
不楽 閻浮提濁悪世也。
此濁悪処 地獄・餓鬼・畜生盈満 多不善聚。
願我未来 不聞悪声 不見悪人。
今向世尊 五体投地 求哀懺悔。
唯願仏日 教我観於清浄業処」。[1]

爾時世尊 放眉間光。其光金色。遍照十方無量世界 還住仏頂 化為金台。如須弥山。
十方諸仏 浄妙国土 皆於中現。
或有国土 七宝合成。復有国土 純是蓮華。
復有国土 如自在天宮。
復有国土 如玻瓈鏡。十方国土 皆於中現。
有如是等 無量諸仏国土。厳顕可観。令韋提希見。

時韋提希 白仏言。
「世尊是諸仏土 雖復清浄皆有光明 我今楽生 極楽世界 阿弥陀仏所。
唯願世尊 教我思惟[2] 教我正受」。 [3]

散善顕行縁[4]

(6)
爾時世尊 即便微笑[5] 有五色光 従仏口出。一一光照頻婆娑羅頂。
爾時大王 雖在幽閉 心眼無障 遥見世尊 頭面作礼 自然増進 成阿那含。

(7)
爾時世尊 告韋提希 汝今知不 阿弥陀仏 去此不遠。
汝当繋念 諦観彼国浄業成者[6]
我今為汝 広説衆譬[7] 亦令未来世一切凡夫 欲修浄業者 得生西方極楽国土。
欲生彼国者 当修三福。
一者孝養父母 奉事師長 慈心不殺 修十善業。
二者受持三帰 具足衆戒 不犯威儀。
三者発菩提心 深信因果 読誦大乗 勧進行者。
如此三事名為浄業。
仏告韋提希 汝今知不。此三種業 過去・未来・現在 三世諸仏浄業正因。

定善示観縁[8]

(8)
仏告阿難及韋提希 諦聴諦聴 善思念之。
如来 今者為未来世 一切衆生 為煩悩賊之所害者 説清浄業。
善哉 韋提希 快問此事。
阿難 汝当受持 広為多衆宣説仏語。
如来 今者 教韋提希及未来世一切衆生 観於西方極楽世界。
以仏力故 当得見彼清浄国土 如執明鏡 自見面像。
見彼国土 極妙楽事 心歓喜故 応時即得無生法忍。
仏告韋提希 汝是凡夫心想羸劣[9] 未得天眼 不能遠観。
諸仏如来有異方便[10] 令汝得見。
時韋提希 白仏言 世尊。
如我今者 以仏力故見彼国土[11] 若仏滅後諸衆生等[12] 濁悪不善 五苦所逼 云何当見 阿弥陀仏極楽世界。

正宗分

定善

日想観

(9)
仏告韋提希 汝及衆生 応当専心繋念一処 想於西方。
云何作想。凡作想者 一切衆生 自非生盲 有目之徒 皆見日没。
当起想念 正坐西向 諦観於日 令心堅住 専想不移 見日欲没 状如懸鼓。
既見日已 閉目開目 皆令明了。
是為日想 名曰初観。

水想観

(10)
次作水想。
見水澄清 亦令明了無分散意。
既見水已 当起氷想。見氷映徹 作瑠璃想。
此想成已 見瑠璃地 内外映徹。
下有金剛七宝金幢 擎瑠璃地。
其幢 八方八楞具足。
一一方面 百宝所成。
一一宝珠有千光明。
一一光明八万四千色。
映瑠璃地 如億千日。不可具見。
瑠璃地上 以黄金縄 雑廁間錯 以七宝界 分斉分明。
一一宝中有五百色光。其光如華。又似星月。
懸処虚空 成光明台。楼閣千万 百宝合成。
於台両辺 各有百億華幢 無量楽器。以為荘厳。
八種清風 従光明出 鼓此楽器 演説 苦・空・無常・無我之音。
是為水想 名第二観。

地観

(11)
此想成時 一一観之 極令了了。
閉目開目不令散失。唯除睡時 恒憶此事。
如此想者 名為 粗見極楽国地。
若得三昧 見彼国地了了分明。不可具説。
是為地想 名第三観。
仏告阿難 汝持仏語 為未来世一切大衆 欲脱苦者 説是観地法。
若観是地者 除八十億劫生死之罪 捨身他世必生浄国。心得無疑。
作是観者 名為正観。若他観者 名為邪観。

宝樹観

(12)
仏告阿難及韋提希 地想成已 次観宝樹。
観宝樹者 一一観之 作七重行樹想。一一樹高八千由旬。
其諸宝樹 七宝華葉 無不具足。
一一華葉 作異宝色。瑠璃色中 出金色光 玻瓈色中 出紅色光 碼碯色中 出硨磲光 硨磲色中 出緑真珠光 珊瑚・琥珀 一切衆宝 以為映飾。
妙真珠網 弥覆樹上。
一一樹上 有七重網。一一網間 有五百億 妙華宮殿。如梵王宮。
諸天童子 自然在中。
一一童子 五百億 釈迦毘楞伽摩尼宝 以為瓔珞。其摩尼光 照百由旬。
猶如和合 百億日月。不可具名。
衆宝間錯 色中上者。
此諸宝樹 行行相当 葉葉相次。於衆葉間 生諸妙華。
華上自然 有七宝果。
一一樹葉 縦広正等 二十五由旬。
其葉千色 有百種画。如天瓔珞。
有衆妙華。作閻浮檀金色 如旋火輪 婉転葉間。
涌生諸果 如帝釈瓶。
有大光明 化成幢旛・無量宝蓋。
是宝蓋中 映現三千大千世界 一切仏事。
十方仏国亦於中現。
見此樹已 亦当次第一一観之。
観見 樹茎・枝葉・華果 皆令分明。
是為樹想 名第四観。

宝池観

(13)
次当想水。想水者 極楽国土 有八池水[13]。一一池水 七宝所成。其宝柔軟。
従如意珠王生 分為十四支。一一支 作七宝色。黄金為渠 渠下皆以雑色金剛 以為底沙。
一一水中 有六十億七宝蓮華。
一一蓮華 団円正等十二由旬。
其摩尼水 流注華間 尋樹上下。
其声微妙 演説 苦・空・無常・無我・諸波羅蜜。
復有 讃歎諸仏相好者。
如意珠王涌出金色 微妙光明。
其光 化為百宝色鳥。和鳴哀雅 常讃念仏 念法 念僧。
是為八功徳水想 名第五観。

宝楼観

(14)
衆宝国土 一一界上 有五百億宝楼閣。
其楼閣中 有無量諸天 作天伎楽。
又有楽器 懸処虚空 如天宝幢 不鼓自鳴。
此衆音中 皆説 念仏 念法 念比丘僧。
此想成已 名為粗見極楽世界 宝樹・宝地・宝池。
是為総観想 名第六観。
若見此者 除無量億劫極重悪業 命終之後 必生彼国。
作是観者 名為正観。若他観者 名為邪観。

華座観

(15)

仏告阿難及韋提希 諦聴諦聴善思念之。

仏当為汝 分別解説 除苦悩法。 汝等憶持 広為大衆 分別解説。
説是語時 無量寿仏 住立空中。観世音・大勢至 是二大士 侍立左右。
光明熾盛 不可具見。
百千閻浮檀金色 不得為比。
時韋提希 見無量寿仏已 接足作礼 白仏言。

世尊 我今因仏力故 得見無量寿仏及二菩薩。未来衆生 当云何 観無量寿仏及二菩薩。

仏告韋提希 欲観彼仏者 当起想。
念於七宝地上 作蓮華想。令其蓮華一一葉 作百宝色。有八万四千脈。猶如天画。
脈有八万四千光 了了分明 皆令得見。華葉小者 縦広二百五十由旬。
如是蓮華 有八万四千葉。一一葉間 各有百億摩尼珠王 以為映飾。
一一摩尼 放千光明。其光 如蓋七宝合成。遍覆地上。
釈迦毘楞伽宝 以為其台。此蓮華台 八万 金剛・甄叔迦宝。梵摩尼宝・妙真珠網 以為交飾於。其台上自然而有四柱宝幢。
一一宝幢 如百千万億須弥山。
幢上宝幔 如夜摩天宮。有五百億微妙宝珠 以為映飾。
一一宝珠 有八万四千光。
一一光作 八万四千異種金色。
一一金色 遍其宝土 処処変化 各作異相。
或為金剛台 或作真珠網 或作雑華雲。
於十方面 随意変現 施作仏事。
是為華座想 名第七観。
仏告阿難 如此妙華 是本法蔵比丘願力所成。
若欲念彼仏者 当先作此華座想。作此想時 不得雑観。
皆応一一観之。一一葉 一一珠 一一光 一一台 一一幢 皆令分明 如於鏡中 自見面像。
此想成者 滅除五万劫生死之罪 必定当生極楽世界。
作是観者 名為正観 若他観者 名為邪観。

像観

(16)
仏告阿難及韋提希 見此事已 次当想仏。所以者何。
諸仏如来 是法界身。入一切衆生心想中。
是故 汝等心想仏時 是心即是三十二相八十随形好 是心作仏。是心是仏。
諸仏正遍知海 従心想生。是故応当一心繋念 諦観彼仏 多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀。
想彼仏者 先当想像。閉目・開目 見一宝像 如閻浮檀金色 坐彼華上。
見像坐已 心眼得開 了了分明 見極楽国 七宝荘厳 宝地・宝池・宝樹行列 諸天宝幔 弥覆其上 衆宝羅網 満虚空中。
見如此事 極令明了 如観掌中。
見此事已 復当更作 一大蓮華 在仏左辺。
如前蓮華 等無有異。
復作一大蓮華 在仏右辺。
想一観世音菩薩像 坐左華座。亦放金光 如前(仏)無異。想一大勢至菩薩像 坐右華座。此想成時 仏・菩薩像 皆放光明。
其光金色 照諸宝樹。一一樹下 復有三蓮華。
諸蓮華上 各有一仏・二菩薩像 遍満彼国。
此想成時 行者 当聞 水流・光明及諸宝樹・鳧・鴈・鴛鴦 皆説妙法 出定・入定 恒聞妙法。
行者所聞 出定之時 憶持不捨。令与修多羅合。
若不合者 名為妄想。若有合者 名為麁想[14] 見極楽世界。
是為像想 名第八観。
作是観者 除無量億劫 生死之罪 於現身中得念仏三昧[15]

真身観

(17)
仏告阿難及韋提希 此想成已 次当更観 無量寿仏 身相光明。
阿難当知 無量寿仏身 如百千万億夜摩天 閻浮檀金色。
仏身高 六十万億那由他恒河沙由旬。
眉間白毫 右旋婉転 如五須弥山。
仏眼如四大海水。青白分明。
身諸毛孔 演出光明。如須弥山。彼仏円光 如百億三千大千世界。
於円光中 有百万億那由他恒河沙化仏。
一一化仏 亦有 衆多無数化菩薩 以為侍者。
無量寿仏 有八万四千相。
一一相 各有八万四千随形好。
一一好 復有八万四千光明。
一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨。
其光明相好 及与化仏 不可具説。
但当憶想 令心眼見。
見此事者 即見十方一切諸仏。以見諸仏故 名念仏三昧。
作是観者 名観一切仏身。以観仏身故 亦見仏心。仏心者大慈悲是。
以無縁慈 摂諸衆生。
作此観者 捨身他世生諸仏前 得無生忍。
是故智者 応当繋心 諦観無量寿仏。

観無量寿仏者 従一相好入。但観眉間 白毫極令明了。
見眉間白毫者 八万四千相好 自然当現。
見無量寿仏者 即見十方無量諸仏。
得見無量諸仏故 諸仏現前授記。
是為遍 観一切色身想 名第九観。
作此観者 名為正観。
若他観者 名為邪観。

観音観

(18)
仏告阿難及韋提希 見無量寿仏了了分明已 次復当観観世音菩薩。
此菩薩身長 八十万億那由他由旬。身紫金色。
頂有肉髻。項有円光。面各百千由旬。
其円光中 有五百化仏 如釈迦牟尼仏。
一一化仏 有五百化菩薩 無量諸天 以為侍者。
挙身光中 五道衆生一切色相 皆於中現。
頂上毘楞伽摩尼宝。以為天冠。其天冠中 有一立化仏。
高二十五由旬。観世音菩薩面 如閻浮檀金色。
眉間毫相 備七宝色。流出八万四千種光明。
一一光明 有無量無数百千化仏。
一一化仏 無数化菩薩 以為侍者。変現自在 満十方世界。譬如紅蓮華色。
有八十億光明 以為瓔珞。其瓔珞中 普現一切諸荘厳事。手掌 作五百億雑蓮華色。
手十指端 一一指端 有八万四千画。猶如印文。
一一画 有八万四千色。
一一色 有八万四千光。其光柔軟 普照一切 以此宝手 接引衆生。
挙足時 足下有千輻輪相。自然化 成五百億光明台。
下足時 有金剛摩尼華 布散一切 莫不弥満。其余身相・衆好 具足如仏無異。
唯頂上肉髻 及無見頂相 不及世尊。
是為観観世音菩薩 真実色身想。名第十観。
仏告阿難 若有欲観観世音菩薩者 当作是観。作是観者 不遇諸禍。
浄除業障 除無数劫生死之罪。如此菩薩 但聞其名 獲無量福。
何況諦観。若有欲観観世音菩薩者 先観頂上肉髻 次観天冠。
其余衆相 亦次第観之 亦令明了 如観掌中。作是観者 名為正観。若他観者 名為邪観。

勢至観

(19)
次復応観大勢至菩薩。此菩薩身量大小 亦如観世音。
円光面 各百二十五由旬。照二百五十由旬。挙身光明 照十方国 作紫金色。有縁衆生 皆悉得見。但見此菩薩 一毛孔光 即見十方無量諸仏 浄妙光明。
是故号此菩薩 名無辺光。以智慧光 普照一切 令離三塗 得無上力。
是故号此菩薩 名大勢至。此菩薩天冠 有五百宝華。
一一宝華有五百宝台。一一台中十方諸仏 浄妙国土広長之相 皆於中現。
頂上肉髻 如鉢頭摩華。於肉髻上 有一宝瓶 盛諸光明 普現仏事。
余諸身相 如観世音 等無有異。此菩薩行時 十方世界 一切震動。
当地動処 有五百億宝華。
一一宝華荘厳 高顕如極楽世界。
此菩薩坐時 七宝国土一時動揺 従下方金光仏刹 乃至上方 光明王仏刹 於其中間 無量塵数分身無量寿仏 分身観世音・大勢至 皆悉雲集極楽国土。
側塞空中 坐蓮華座 演説妙法 度苦衆生。
作此観者 名為正観 若他観者 名為邪観。
見大勢至菩薩 是為観大勢至色身想 名第十一観観。
此菩薩者 除無数劫阿僧祇生死之罪。作是観者 不処胞胎 常遊諸仏浄妙国土。
此観成已 名為具足 観観世音・大勢至。

普観

(20)
見此事時 当起自心 生於西方極楽世界 於蓮華中結跏趺坐 作蓮華合想 作蓮華開想。蓮華開時 有五百色光。来照身 想眼目。開想見仏菩薩 満虚空中。水・鳥・樹林 及与諸仏所出音声 皆演妙法。与十二部経合 出定之時 憶持不失。見此事已 名見無量寿仏 極楽世界。
是為普観想 名第十二観。
無量寿仏化身無数 与観世音・大勢至 常来至 此行人之所。

雑想観

(21)
仏告阿難及韋提希 若欲至心 生西方者 先当観於 一 丈六像 在池水上。如先所説 無量寿仏身量無辺 非是凡夫心力 所及。
然 彼如来宿願力故 有憶想者 必得成就。
但想仏像 得無量福。何況 観仏具足身相。
阿弥陀仏 神通如意 於十方国変現自在。或現大身満虚空中 或現小身丈六 八尺。
所現之形 皆真金色 円光化仏及宝蓮華如上所説。
観世音菩薩及大勢至 於一切処身同。衆生但観首相 知是観世音知 是大勢至。此二菩薩 助阿弥陀仏 普化一切。
是為雑想観 名第十三観。

散善

上輩

上品上生

(22)
仏告阿難及韋提希 上品上生者 若有衆生願生彼国者 発三種心即便往生[16]。何等為三。一者至誠心 二者深心 三者廻向発願心。具三心者 必生彼国。復有三種衆生当得往生。何等為三。
一者 慈心不殺 具諸戒行。
二者 読誦大乗方等経典。
三者 修行六念。
廻向発願 願生彼国。具此功徳 一日乃至七日 即得往生。
生彼国時 此人精進勇猛故 阿弥陀如来 与観世音・大勢至・無数化仏・百千比丘・声聞大衆・無数諸天・七宝宮殿。
観世音菩薩 執金剛台 与大勢至菩薩 至行者前。
阿弥陀仏 放大光明 照行者身 与諸菩薩 授手迎接。
観世音・大勢至 与無数菩薩 讃歎行者 勧進其心。
行者見已 歓喜踊躍 自見其身 乗金剛台。
随従仏後 如弾指頃 往生彼国。生彼国已 見仏色身 衆相具足 見諸菩薩 色相具足。
光明宝林 演説妙法。聞已即悟無生法忍。経須臾間 歴事諸仏 遍十方界 於諸仏前 次第授記。
還到本国 得無量百千陀羅尼門 是名上品上生者。

上品中生

(23)
上品中生者 不必受持読誦方等経典 善解義趣 於第一義 心不驚動。
深信因果 不謗大乗。以此功徳 廻向願求 生極楽国。
行此行者 命欲終時 阿弥陀仏与観世音・大勢至・無量大衆 眷属囲繞 持紫金台 至行者前。
讃言 法子汝行大乗解 第一義。
是故我今来 迎接汝。与千化仏一時授手。
行者自見 坐紫金台。合掌・叉手讃歎諸仏。
如一念頃 即生彼国七宝池中。
此紫金台 如大宝華。経宿則開。行者身 作紫磨金色。
足下亦有七宝蓮華。仏及菩薩 倶時放光明 照行者身 目即開明。
因前宿習 普聞衆声 純説甚深第一義諦。即下金台 礼仏合掌 讃歎世尊。経於七日 応時 即於阿耨多羅三藐三菩提 得不退転。
応時 即能飛行 遍至十方 歴事諸仏。
於諸仏所 修諸三昧。
経一小劫 得無生忍 現前授記。
是名上品中生者。

上品下生

(24)
上品下生者 亦信因果不謗大乗。
但発無上道心 以此功徳廻向 願求生極楽国。
行者命欲終時 阿弥陀仏及観世音・大勢至 与諸眷属 持金蓮華 化作五百化仏 来迎此人。
五百化仏 一時授手 讃言
法子汝今清浄 発無上道心。我来迎汝。
見此事時 即自見身 坐金蓮華。坐已華合。
随世尊後 即得往生 七宝池中。
一日一夜 蓮華乃開 七日之中乃得見仏。
雖見仏身 於衆相好 心不明了。
於三七日後 乃了了見。
聞衆音声 皆演妙法。
遊歴十方 供養諸仏。於諸仏前 聞甚深法。
経三小劫 得百法明門 住歓喜地。
是名上品下生者。
是名上輩生想 名第十四観。

中輩

中品上生

(25)
仏告阿難 及韋提希 中品上生者 若有衆生 受持五戒 持八戒斎 修行諸戒 不造五逆 無衆過患。
以此善根廻向 願求生於西方極楽世界。
臨命終時 阿弥陀仏 与諸比丘・眷属囲繞 放金色光 至其人所。
演説 苦・空・無常・無我 讃歎出家得離衆苦。
行者見已 心大歓喜。
自見己身 坐蓮華台。
長跪合掌 為仏作。礼未挙頭頃 即得往生極楽世界 蓮華尋開。
当華敷時 聞衆音声 讃歎四諦。
応時 即得阿羅漢道。三明・六通 具八解脱。
是名中品上生者。

中品中生

(26)
中品中生者 若有衆生 若一日一夜 受持八戒斎 若一日一夜 持沙弥戒 若一日一夜持具足戒 威儀無欠。
以此功徳廻向 願求生極楽国。
戒香熏修 如此行者 命欲終時 見阿弥陀仏与諸眷属 放金色光 持七宝蓮華 至行者前。
行者自聞 空中有声讃言。
善男子 如汝善人。随順 三世諸仏教 故 我来迎汝。
行者自見 坐蓮華上。
蓮華即合 生於西方極楽世界 在宝池中。
経於七日 蓮華乃敷。華既敷已 開目合掌 讃歎世尊 聞法歓喜 得須陀洹 経半劫已 成阿羅漢。
是名中品中生者。

中品下生

(27)
中品下生者 若有善男子・善女人 孝養父母 行世仁慈。此人命欲終 時 遇善知識為其 広説阿弥陀仏国土楽事 亦説法蔵比丘 四十八願聞。
此事已尋 即命終。譬如壮士 屈伸臂頃 即生西方極楽世界。
生経七日 遇観世音及大勢至 聞法 歓喜 経一小劫 成阿羅漢。
是名中品下生者。
是名中輩生想 名第十五観。

下輩

下品上生

(28)
仏告阿難及韋提希 下品上生者 或有衆生 作衆悪業。
雖不誹謗方等経典 如此愚人 多造衆悪 無有慙愧。
命欲終時 遇善知識 為讃大乗十二部経 首題名字。
以聞如是 諸経名故 除却千劫極重悪業。
智者復 教合掌叉手 称南無阿弥陀仏 称仏名故 除五十億劫 生死之罪。
爾時彼仏 即遣 化仏・化観世音・化大勢至 至行者前 讃言善男子 汝称仏名故 諸罪消滅 我来迎汝。
作是語已 行者即見化仏光明 遍満其室。
見已歓喜 即便命終乗宝蓮華 随化仏後 生宝池中。
経七七日 蓮華乃敷。当華敷時 大悲観世音菩薩及大勢至 放大光明 住其人前 為説甚深十二部経。
聞已信解 発無上道心。経十小劫 具百法明門 得入初地。
是名下品上生者 得聞仏名・法名及聞僧名。聞三宝名 即得往生。

下品中生

(29)
仏告阿難及韋提希 下品中生者 或有衆生 毀犯五戒八戒 及具足戒。
如此愚人 偸僧祇物 盗現前僧物 不浄説法 無有慙愧 以諸悪業 而自荘厳。
如此罪人 以悪業故 応堕地獄。命欲終時 地獄衆火 一時倶至。
遇 善知識以大慈悲 為説阿弥陀仏十力威徳 広説彼仏光明神力 亦讃 戒・定・慧・解脱・解脱知見。
此人聞已 除八十億劫 生死之罪。地獄猛火 化為清涼風 吹諸天華。
華上 皆有 化仏・菩薩 迎接此人。
如一念頃 即得往生。
七宝池中蓮華之内 経於六劫 蓮華乃敷。当華敷時 観世音大勢至 以梵音声 安慰彼人 為説大乗甚深経典。
聞此法已 応時即発無上道心。
是名下品中生者。

下品下生

(30)
仏告阿難及韋提希 下品下生者 或有衆生 作不善業 五逆・十悪 具諸不善。
如此愚人 以悪業故 応堕悪道 経歴多劫 受苦無窮。
如此愚人 臨命終時 遇善知識 種種安慰 為説妙法 教令念仏。
此人苦逼 不遑念仏。
善友告言 汝若不能念者 応称無量寿仏。
如是 至心令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏。
称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪。
命終之時 見金蓮華 猶如日輪 住其人前。
如一念頃 即得往生極楽世界。於蓮華中 満十二大劫 蓮華方開。
観世音・大勢至 以大悲音声 為其 広説 諸法実相 除滅罪法。
聞已歓喜 応時 即発菩提之心。
是名下品下生者。
是名下輩生想 名第十六観。

得益分

(31)
説是語時 韋提希 与五百侍女 聞仏所説 応時即 見極楽世界 広長之相。
得見 仏身及二菩薩 心生歓喜 歎未曾有。
廓然大悟 得無生忍。五百侍女 発阿耨多羅三藐三菩提心 願生彼国。
世尊 悉記皆当往生 生彼国已 得諸仏現前三昧。
無量諸天 発無上道心。

流通分

(32)
爾時阿難 即従座起 前白仏言世尊。
当何名 此経此法之要 当云何受持。
仏告阿難 此経名観極楽国土 無量寿仏 観世音菩薩大勢至菩薩 亦名浄除業障 生諸仏前。
汝当受持 無令忘失行此三昧者 現身得見 無量寿仏及二大士。
若善男子善女人 但聞仏名二菩薩名 除無量劫生死之罪。何況憶念。
若念仏者 当知此人。是人中分陀利華[17]。観世音菩薩・大勢至菩薩 為其勝友。当坐道場 生諸仏家。
仏告阿難 汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名[18]
仏 説此語時 尊者目犍連・阿難及韋提希等 聞仏所説 皆大歓喜。

耆闍分

(33)
爾時世尊 足歩虚空 還耆闍崛山。
爾時阿難 広為大衆 説如上事 無量諸天及竜・夜叉 聞仏所説 皆大歓喜 礼仏而退。

仏説観無量寿経

参 考:以下の(十三文例)とは、「化巻」p.382で顕彰隠密の義をあらわす例として十三文を釈しておられることを指す。

  1. 「教我観於清浄業処」といへり。 「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。(十三文例「化巻」p.382)。
    ◇教我観於清浄業処(われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ)。煩悩が一点も雑わらない法蔵菩薩の清浄な業によって完成された処(浄らかな土=浄土)ということ。
    経の当面及び善導大師の解釈では、行者の清浄なる業によって感得せられる世界のことである。これは「序分義」欣浄縁p.375の「まさしく夫人通じて去行を請ずることを明かす。 これ夫人上にはすなはち通じて生処を請じ、いままた通じて得生のを請ずることを明かす」の文から判る。御開山は『観経』の教説に隠顕を見られるのだが、『智度論』の「義に依りて語に依らざるべし」の精神での釈である。まさに本願力回向の信心の智慧によって読み解かれた世界ではある。
  2. 教我思惟」といふは、すなはち方便なり。(十三文例)。
    ◇教我思惟(われに思惟を教へたまへ)。「玄義分」p.308の「思惟といふはすなはちこれ観の前方便なり。」という文に拠られて思惟は方便とされた。善導大師の当面の釈によれば「教我思惟といふは、すなはちこれ定の前方便、かの国の依正二報・四種の荘厳を思想し憶念するなり」とあるように、 思惟は正受を実現する為の前方便(手段)であるが、御開山は思惟は方便であるとされた。次下の正受とは本願力回向の、信心であるということをあらわす為である。
  3. 教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。(十三文例)。
    ◇教我正受(われに正受を教へたまへ)
    「帰三宝偈」「玄義分」p.297の、
      世尊我一心 帰命尽十方
      法性真如海 報化等諸仏
      {中略}
      妙覚及等覚 正受金剛心
      相応一念後 果徳涅槃者
    (世尊、われ一心に尽十方の法性真如海と、報化等の諸仏と{中略}妙覚および等覚の、まさしく金剛心を受け(正受金剛心)、相応する一念の後、果徳涅槃のものに帰命したてまつる)
    の文から、正受とは如来回向の金剛心(金剛の真心)を正受することであるとされた。自力の行者であるならば、金剛の心を起こしてであるが、正受とは阿弥陀如来の願心を正受することであるとされたのである。まさに本願力回向の行信であることを釈されるのではあった。
    そして観経の説かれた意義を、「またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。」「化巻」p.393と、金剛の真心(信楽)と念仏衆生摂取不捨(摂取不捨)を顕すためであるとされた。『観経』とは本願力回向の金剛の信心を正受することと摂取不捨をあらわす経典であったのである。「正信念仏偈」で「行者正受金剛心」と讃嘆される所以である。なお金剛とは、無漏の体とする。「信巻」p.245
  4. 散善顕行縁。『観経疏』序分義にある科段名。
    善導大師の当面では「散善行を顕す縁(序分)」の意味であるが、御開山は「(自力の)散善は、他力念仏を顕す縁」と転意されている。
  5. 韋提希夫人が釈尊に十方の浄土を見せられ、特にその中から極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれたいと願ったので、釈尊の本意(念仏往生)を説く時がきたと微笑されたのである。
    「釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。」「化巻」p.382とされる所以である。なお、「総序」では「しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。」とある。『観経』の当面では、「汝是凡夫心想羸劣」である韋提希夫人であるが、御開山によれば浄土から還相された姿が権化(仏・菩薩が仮に人の姿を現したもの)の韋提希夫人であった。善導大師も「序分義」で「如来ひそかに夫人を遣はして、別して選ばしめたまふことを致すことを明かす」とされておられる。
  6. 諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。(十三文例)。
    ◇諦観彼国浄業成者(あきらかにかの国の浄業成じたまへるひとを観ずべし)。この場合の「観」とは観経でいう観相ではなく、憶念であるとされる。これは『一念多念証文』で『浄土論』の「観仏本願力」の観を「観は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり」(『一念多念証文』p.691)とされておられることから判る。観知とはいわゆる憶念(信心)とされるのである。
  7. 広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。(十三文例)。
    ◇広説衆譬(広くもろもろの譬へを説く)。すなわち定善十三観は譬えであり真実の義ではないとする。仏教では譬喩について種々論じられるが、ここでは、他の物と事を借りて仮に表現することであり真実そのものではないという意。この道の聴聞のベテランは、法話中の譬喩を「譬えは一分」といって、譬えは全体像の極一部を仮に表現したものにすぎないのであるから譬喩に囚われてはいけないと注意されていた。
  8. 散善顕行縁。『観経疏』序分義にある科段名。
    善導大師の当面では「散善行を顕す縁(序分)」の意味であるが、御開山は「自力の散善は、他力念仏を顕す縁」と転意されている。
  9. 汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。(十三文例)。
    ◇汝是凡夫心想羸劣(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)。御開山は文面上に明らかに現れていることを「顕」とし、文面上には見えないが義としてある場合は「彰」とされた。ここでは、凡夫を指して、機であると「彰す」であるから経文の上には見えないが義として悪人が往生の機の意味があるということ。悪人正機という言い方はされておられないことに注意。
  10. 諸仏如来有異方便。すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。(十三文例)。
    ◇『観経』で顕に説かれる定散や諸善は権仮方便であるとされる。そして、経文の上に「諸仏如来有異方便」と方便であると顕かに現れているので「顕す」とされた。
  11. 以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。(十三文例)。
    ◇韋提希夫人は釈尊の仏力によって浄土を見せしめられたのであるから仏力とは他力を顕すのであるとする。仏が他である韋提希夫人に浄土を見せしめたのであるから、他力の他は韋提希夫人である。
  12. 若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。(十三文例)。
    ◇韋提希夫人が、「もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」でしょうか、と問われたことは未来の衆生の為であり、そして阿弥陀如来の正機(正しき目当て)であるとする。韋提希夫人の為に説かれた『観経」であるが、この文によってあらゆる未来の衆生(これを読んでいるあなた)の為に説かれた教典であるとされる。ここでも韋提希夫人を凡夫であると同時に権化の仁(総序)とされるのであろう。
  13. 八つの池ではなく次下の八功徳水で満たされた池のこと。
  14. 若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。(十三文例)。
    ◇『観経疏』「華座観釈」p.424に、もし定と合することがなければ「たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず」とある。ここでは、「若有合者 名為麁想」(もし合することあるをば、名づけて粗想)であるとする。たとえ経と合することがあっても麁想に極楽世界を見ただけであるとし、いかに定善が成じ難いかを顕す文とされる。
  15. 於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。(十三文例)。
    ◇定観成就の「真身観」の直前で、「於現身中得念仏三昧」と説かれているのは、定観が成就して得られる利益は念仏三昧であるされる。この念仏三昧は『観経』の当面では観仏三昧のことである。三昧とはサマーディ(samādhi)の音写で、精神を統一し安定させることであるから三昧といわれるのであり観想の観仏三昧のことである。しかし、法然聖人は「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす」の文を、観仏と口称の念仏(なんまんだぶ)を説く意であるとされた。それは『観経疏』の流通分に「仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」とある文から『観経』を逆観されたからであった。
    それを承けられた御開山は、この定観(真身観)が成就すれば阿弥陀仏の真身が見える。真身が見えたら「一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」(一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)という「念仏衆生摂取不捨」ということが判る。この念仏とは善導大師によれば称名(なんまんだぶ)である。そうすると定観成就の益とは、称名念仏している者が摂取されているという事が判ることである。すると定観は必要ではなかったという事が判り、実は定観は不必要であるということが定観の益であるということになる。このことを「定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とする」とされたのである。
    このような見方は善導大師が、『観経』の結論である「流通分」で「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」とされたことや、「玄義分」p.305で「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす」と、一経に観仏三昧の法と念仏三昧の法が説かれているとされていたことに示唆されたのであろう。 念仏が称名であることは、善導大師が、この「真身観」中の以下の釈で判る。
    「自余の衆行はこれ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比校にあらず。このゆゑに諸経のなかに処々に広く念仏の功能を讃めたり。 『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす。 また『弥陀経』のなかのごときは、一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と。 また十方恒沙の諸仏の証誠虚しからずと。 またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。 この例一にあらず。 広く念仏三昧を顕しをはりぬ」(定善義 P.437)
    名号を念じるのであるから明らかに称名念仏のことである。御開山は『観経』の教説に真仮を見られ、「またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。」(化巻 P.393と、『観経』の真実義は、無量寿仏が念仏す者を摂取不捨されることであるとされるのであった。念仏衆生摂取不捨ということは常人にはほぼ不可能な定善観が完成して初めて判ることなのだが、我々はこれを七祖の伝統の上で、御開山からお聞きするのである。これを見聞一致といい、聞くことは見(知ること)であり信知であり、これを聞見というのである。なお、聞見という言葉は「真仏土巻」で「もし観察して知ることを得んと欲はば、二つの因縁あり。一つには眼見、二つには聞見なり」とある。
  16. 発三種心即便往生」といへり。 また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。(十三文例)。
    ◇上輩・中輩・下輩の三種類の人について、それぞれ定善の自力の三心・散善の自力の三心・弘願他力の三心があるとされる。これは「化巻」P.392で方便の願(第十九願)を考察して、 「また二種の三心あり。また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心はすなはち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。即往生とはすなはちこれ報土化生なり。」と、定善の三心と散善の三心の二種に分けておられることから判る。二種の往生とは、即便往生という言葉を即と便に分けて、『大経』による往生を即往生とし、『観経』による往生を便往生とされる。即を即得往生の意とし、便を方便の便とみられた。便にはかたわらにという意味があるからであろう。また『愚禿鈔下』p.541で「また「即往生」とは、これすなはち難思議往生、真の報土なり。「便往生」とは、すなはちこれ諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界、双樹林下往生なり、また難思往生なりと、知るべし」とある。
  17.  またのたまはく(観経)、「もし念仏するひとは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」。「信巻末」p.258で、分陀利華の文として引文されておられる。
    ◇善導大師は、念仏する人を五種の嘉誉として、好人・妙好人・上上人。希有人・最勝人であるとされた。浄土真宗では近代から篤信の人を妙好人と呼称することが多いが、本意は、なんまんだぶを称えている人が妙好人なのである。
  18. 『観経』にのたまはく、「仏阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」。「化巻本」p.401で善本の経文証として引文されておられる。
    善導大師は「上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」とし、要するに『観経』は、なんまんだぶを称えることを勧め流通する経典であるとされた。