「和語灯録」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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===黒谷上人語灯録第十一=== | ===黒谷上人語灯録第十一=== |
2021年10月3日 (日) 15:12時点における版
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黒谷上人語灯録第十一
- 黒谷上人語灯録第十一{并序}
厭欣沙門了恵集録
しづかにおもむみれば、良医のくすりはやまひのしなによてあらはれ、如来の御のりは機の熟するにまかせてさかりなり。日本一州浄機純熟して朝野遠近みな浄土に帰し、緇素貴賤ことごとく往生を期す。その濫觴をたづぬれば、
釈迦は撥遣の教主、弥陀は来迎の本尊なれは、二尊心をおなしくして、往生のみちをひろめむがためなるべし。しかれば小墾田天皇{推古}の御時、聖徳太子二仏の御意にしたがはせ給ひて、七日弥陀の名号を称して、祖王{欽明}の恩を報じ、御文を善光寺の如来へたてまつり給ひしかは、如来みづから御返事ありき。太子の御消息にいはく
- 名号穪揚七日已 此是為報広大恩
- 仰願本師弥陀尊 助我済度常護念「隠/顕」名号を称揚すること七日に已んぬ、此はこれ広大の恩を報いんが為なり。仰ぎ願はくは本師弥陀尊、我が済度を助け常に護念したまへ。『太子伝撰集抄』
如来の御返事にいはく
- 一念穪揚恩無留 何况七日大功徳
- 我待衆生心無間 汝能済度豈不護「隠/顕」一念称揚留む事無し、何に況んや七日の大功徳をや。我衆生を待ちて心間(ひま)無し。汝能く済度せんこと豈に護らざらんや。
太子つゐに往生の異境(瑞相)をあらはして、利益を本朝(四海)にしめし給ひき。そののち
恵心僧都は、楞厳の月のまえに往生の要文をあつめ、永観律師は、禅林の花のもとに念仏の十因を詠じて、おのおの浄土の教行をひろめ給ひしかども、往生の化道いまださかりならざりしに、なかご黒谷の上人、勢至菩薩の化身として、はじめて弥陀の願意をあきらめ、もはら称名の行をすゝめ給ひしかば、勧化一天にあまねく、利生万人におよぶ。浄土宗といふ事は、この時よりひろまりけるなり。
しかれば、往生の解行をまなぶ人、みな上人をもて祖師とす。ここにかのながれをくむ人おほきなかに、おのをの義をとることまちまちなり。いはゆる余行は本願か本願にあらざるか、往生するやせずや、三心のありさま、二修のすがた、一念・多念のあらそひなり。まことに金鍮しりがたく、邪正いかでかわきまふべきなれば、きくものおほく、みなもとをわすれてながれにしたがひ、あたらしきを貴てふるきをしらず。『尚書』にいへることあり、「人貴旧器貴新。」[2]
予、この文におどろきて、いさゝか上人のふるきあとをたづねて、やゝ近代のあたらしきみちをすてんとおもふ。仍(よ)て、あるひは かの書状をあつめ、あるひは書籍にのするところの詞を拾ふ。やまとことばはその文みやすく、その心さとりやすし。
ねがはくは、もろもろの往生をもとめん人、これをもて灯として、浄土のみちをてらせと也。もしおつるところの書あらば、後賢かならずこれに続け。
時に文永十二年正月廿五日、上人遷化の日、報恩の心ざしをもていふことしか也。
- 和語 第二之一{当巻有三章}
- 三部経釈 第一
- 御誓言書 第二
- 往生大要抄 第三
三部経釈
- 三部経釈 第一
『双巻経』・『観経』・『阿弥陀経』、これを浄土三部経といふ。
『双巻経』には、まづあみだほとけの四十八願をとく、のちに願成就をあかせり。その四十八願といふは、法蔵比丘、世自在王仏の御まへにして、菩提心をおこして、浄仏国土・成就衆生の願をたて給ふ。およそその四十八願に、あるいは无三悪趣ともたて、あるひは不更悪趣ともとき、あるひは悉皆金色ともいふは、みな第十八の願のためなり。
「設我得仏、十方衆生、至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者不取正覚」{大経巻上}といへるは、四十八願の中に、この願ことにすぐれたりとす。
そのゆえは、かのくにゝもしむまるゝ衆生なくは、悉皆金色・無有好醜等の願も、なにによてか成就せん。往生する衆生のあるにつきてこそ、身のいろも金色に、好醜ある事もなく、五通をも具し、宿命をもさとるべけれ。
これによて、善導釈しての給はく、「法蔵比丘四十八願をたて給ひて、願々にみな、若我得仏、十方衆生、穪我名号、願生我国、下至十念、若不生者、不取正覚 {云々}。四十八願に一一にみなこの意あり」{玄義分i意}と釈し給へり。およそ諸仏の願といふは、 上求菩提・下化衆生の心なり。大乗経にいはく、「菩薩願有二種、一上求菩提、二下化衆生也。其上求菩提本意、為易済度衆生。」{云云}
しかれば、たゞ本意は下化衆生の願にあり。いま弥陀如来の国土を成就し給ふも、衆生を引接せんがためなり。総じていづれのほとけも、成仏已後は内証外用の功徳、済度利生の誓願、いづれもいづれもみなふかくして、勝劣ある事なけれども、菩薩の道を行じ給ひし時の善巧方便のちかひ、みなこれまちまちなる事也。弥陀如来は因位の時、もはらわが名号を念ぜんものをむかへんとちかひ給ひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向し給ふ。濁世のわれらが依怙、末代の衆生の出離、これにあらずは、なにをか期せんや。
これによて、かのほとけも、「我建超世願」(大経巻上)となのり給へり。三世の諸仏も、いまだかくのごとくの願をばおこし給はず。十方の薩埵も、いまだこれらの願はましまさず。
「斯願若尅果 大千応感動 虚空諸天人 当雨珍妙花」{大経巻上}とちかひ給ひしかば、大地六種に震動し、天より花ふりて、なんぢまさに正覚なり給ふべしとつげたりき。法蔵比丘いまだ成仏し給はづとも、この願うたがふべからず。いかにいはんや、成仏已後十劫になり給へり。信ぜすはあるべからず。
「彼仏今現在世成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生」{礼讃}と釈したまへるはこれなり。
「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆誹謗正法」{大経巻下}文 これは第十八の願成就の文なり。
願には「乃至十念」{大経巻上}とゝくといへども、まさしく願成就のなかには一念にありとあかせり。つぎに三輩往生の文あり。これは第十九の臨終現前の願成就の文なり。発菩提心等の業をもて三輩をわかつといへども、往生の業は通じてみな「一向専念無量寿仏」{大経巻下} といへり。これすなはちかのほとけの本願なるがゆへなり。
また「其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転」といふ文あり。漢朝に玄通律師といふものありき。小戒をたもてるものなり。遠行して野寺に宿したりけるに、隣房に人ありてこの文を誦す。玄通これをききて一両遍誦してのち、おもひいだす事もなくてわすれにけり。そのゝちこの玄通律師戒をやぶれり。そのつみによて閻魔の庁にいたる時、閻魔法王の給はく、なんぢ仏法流布のところにむまれたりき。
所学の法あらば、すみやかにとくべしとて、高座にのぼせ給ひき。その時玄通、高座にのぼりておもひめぐらすに、すべて心におぼゆる事なし。野寺に宿してきゝし文あり、これを誦せんとおもひいでて、「其仏本願力」といふ文を誦したりしかば、閻魔法王、たまのかぶりをかたぶけて、これはこれ、西方極楽の弥陀如来の功徳をとく文なりといひて、礼拝し給ひき。願力不思議なる事、この文に見へたり。
「仏語弥勒 其有得聞 彼仏名号 信心歓喜 乃至一念 当知此人 為得大利 即是具足 無上功徳。」{大経巻下意文}文
弥勒菩薩、この『経』を付属し給ふには、乃至一念するをもて大利無上の功徳との給へり。経の大意、これらの文にあきらかなるものなり。
次に『観経』には、定善・散善をときて、念仏をもて阿難に付属し給ふ。「汝好持是語」{観経}といへるはこれなり。
第九の真身観に、「光明徧照十方世界 念仏衆生摂取不捨」といふ文あり。済度衆生の願は平等にして差別ある事なけれども、无縁の衆生は利益をかうぶる事あたはず。
このゆへに、弥陀善逝、平等の慈悲にもよほされて、十方世界にあまねく十方世界をてらして、一切衆生にことごとく縁をむすばしめんがために、光明無量の願をたて給へり。第十二の願これなり。名号をもて因として、衆生を引接し給ふ事を、一切衆生にあまねくきかしめむがために、第十七の願に、「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わか名を称せすといはゞ、正覚をとらじ」{大経巻上}といふ願をたて給ひて、次に第十八の願に、「乃至十念、若不生者、不取正覚」{大経巻上}とたて給へり。これによて、釈迦如来この土にしてとき給ふがごとく、十方にも。おのおの恒河沙のほとけましまして、おなじくこれをしめし給へるなり。しかれば、光明の縁はあまねく十方世界をてらしてもらす事なく。又十方无量の諸仏みな名号を称讃し給へば、きこえずといふところなし。
「我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚」(大経巻上)とちかひ給ひしは、このゆへなり。しかれば、光明の縁と名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかうぶらん事うたがふべからず。このゆへに『往生礼讃』の序にいはく、
「諸仏所証平等是一 若以願行来収 非無因縁然 弥陀世尊 本発深重誓願 以光明名号 摂化十方」といへり。
又この願ひさしく衆生を済度せんがために、寿命無量の願をたて給へり。第十三の願これなり。総じては、光明無量の願は、横に一切衆生をひろく摂取せんがためなり。寿命無量の願は、竪に十方世界をひさしく利益せんがためなり。かくのごとくの因縁和合すれば、摂取の光明の中に又化仏・菩薩ましまして、この人を摂護して、百重千重囲繞し給ふに、信心いよいよ増長し、衆苦ことことく消滅す。臨終の時、ほとけみづから来迎し給ふに、もろもろの邪業繫よくさふるものなし。これは衆生いのちをはる時にのぞみて、百苦きたりせめて身心やすき事なく、悪縁ほかにひき、妄念うちにもよほして、境界・自躰・当生の三種の愛心きおひおこる。第六天の魔王、この時にあたりて、威勢をおこして、もてさまたげをなす。
かくのごときの種種のさはりをのぞかんがために、かならず臨終の時にはみづから菩薩聖衆に囲繞せられて、その人のまへに現ぜんとちかひ給へり。第十九の願これ也。
これによて、臨終の時いたれば、ほとけ来迎し給ふ。行者これを見たてまつりて、心に歓喜をなして、禅定にいるがことくして、たちまちに観音の蓮台に乗して、安養の宝地にいたる也。
これらの益あるがゆへに、「念仏衆生摂取不捨」といふなり。
又この『経』(観経) に「具三心者必生彼国」ととけり。三心といは、一には至誠心、二にに深心、三には廻向発願心なり。
三心はまちまちにわかれたりといへども、要をとり詮をえらんでこれをいへば、深心におさめたり。
善導和尚釈し給はく、「至といは真なり、誠といは実なり。一切衆生の身口意業に修するところの解行、かならず真実心の中になすべき事をあかさんとす。ほかに賢善精進の相を現じて、うちに虚仮をいだく事をえざれ」(散善義) といへり。
その解行といは、罪悪生死の凡夫、弥陀の本願によて、十声・一声决定してむまると、真実にさとりて行ずる、これなり。ほかには本願を信ずる相を現じ、うちには疑心をいたく。これは不真実の心なり。
「深心はふかく信ずる心なり。决定してふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫なり、曠劫よりこのかたつねに流転して、出離の縁なしと信じ、决定してふかくこの阿弥陀如来は四十八願をもて衆生を摂取し給ふ事、うたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生する事をうと信ずべし」(散善義) といへり。
はじめに、まづ「罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた出離の縁ある事なしと信ぜよ」といへるは、これすなはち断善闡提のごとくなるもの也。かかる衆生の一念・十念すれば、无始よりこのかた、いまだいでざる生死の輪廻をいでゝ、かの極楽世界の不退の国土にむまるといふによりて、信心はおこるべきなり。およそほとけの別願の不思議は、ただ心のはかるところにあらず。仏と仏とのみよくしり給へり。阿弥陀仏の名号をとなふるによて、五逆・十悪ことごとくむまるといふ別願の不思議のちからまします、たれかこれをうたがふべき。
善導の「疏」(散善義) にいはく、「あるひは人ありて、なんぢ衆生、曠劫よりこのかた および今生の身口意業に、一切の凡聖の身のうへにおいて、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等のつみをつくりて、いまだのぞきつくす事あたはず。しかも、これらのつみは三界悪道に繫属す。いかんそ、一生の修福念仏をもて、すなはちかの无漏无生のくにゝいりて、ながく不退のくらゐを証悟する事をえんやといはば、いふべし。諸仏の教行はかず塵沙にこえたり、禀識の機縁、随情ひとつにあらず。たとへば世間の人のまなこに見つべく信じつべきがごときは、明よく暗を破し、空よく有をふくむ。地よく載養し、みづよく生潤し、火よく成壊するがごとし。
かくのごときらの事ことごとく待対の法となづく。すなはちみづから見るべし、千差万別なり。いかにいはんや、仏法不思議のちから、あに種種の益なからんや」といへり。
極楽世界に水鳥・樹林の微妙の法をさやづるは不思議なれども、これらはほとけの願力なればと信じて、なんぞたゞ第十八の「乃至十念」(大経巻上) といふ願をのみうたがふべきや。
総じて仏説を信せば、これも仏説なり。『花厳』の三無差別、『般若』の尽浄虚融、『法花』の実相真如、『涅槃』の悉有仏性、たれか信ぜざらんや。これも仏説なり、かれも仏説なり。いづれをか信じ、いづれをか信ぜざらんや。それ三字の名号はすくなしといへども、如来所有の内証外用の功徳、万億恒沙の甚深の法門を、このうちにおさめたり。たれかこれをはかるべきや。
『疏』の「玄義分」(意) にこの名号を釈していはく、「阿弥陀仏といは、これ天竺の正音、こゝには翻じて无量寿覚といふ。无量寿といは、これ法、覚といはこれ人、人法ならべてあらはす。かるがゆへに阿弥陀仏といふ。人法といは所観の境也、これについて依報あり、正報あり」といへり。しかれば、はじめ弥陀如来・観音・勢至・普賢・文殊・地蔵・龍樹より、乃至かの土の菩薩・声聞等にいたるまでそなへ給へるところの事理の観行、定恵の功力、内証の智恵、外用の功徳、総じて万徳无漏の所証の法門、みなことごとく三字のなかにおさまれり。そうじて極楽界にいづれの法門か もれたるところあらん。
しかるを、この三字の名号をば、諸宗おのおのわか宗に釈しいれたり。真言には阿字本不生の義、四十二字を出生せり。一切の法は阿字をはなれる事なきがゆへに、功徳甚深の名号といへり。天台宗には空・仮・中の三諦、正・了・縁の三義、法・報・応の三身、如来所有の功徳これをいでざるがゆへに、功徳莫大なりといへり。
かくのごとく諸宗におのおのわが存ずるところの法について、阿弥陀の三字を釈せり。いまこの宗のこころは、真言の阿字本不生の義も、天台の三諦一理の法も、三論の八不中道のむねも、法相の五重唯識の心も、総じて森羅の万法ひろくこれを摂すとならふ。極楽世界にもれたる法門なきがゆえに。たゞしいま弥陀の願の心は、かくのごとくさとるにはあらず。たゞふかく信心をいたしてとなふるものをむかへんとなり。耆婆・扁鵲か万病をいやすくすりは、もろもろの草・よろづのくすりをもて合薬せりといへども、病者これをさとりて、その薬種何分、その薬草何両和合せりとしらず。しかれども、これを服するに万病ことごとくいゆるがごとし。たゞしうらむらくは、このくすりを信ぜずして、わがやまひはきはめておもし、いかゞこの薬にてはいゆる事あらんとうたがひて服せずんば、耆婆か医術も、扁鵲か秘方も、むなしくしてその益あるべからざるがごとく、弥陀の名号もかくのごとし。それ煩悩悪業のやまひ、きはめておもし、いかがこの名号をとなへてむまるゝ事あらんと、うたがひてこれを信ぜずは、弥陀の誓願・釈尊の所説、むなしくして、そのしるしあるべからず。ただあふいて信ずべし。良薬をえて服せずして死することなかれ。崑崙のやまにゆきて たまをとらずしてかへり、栴檀のはやしにいりて枝をよぢずしていでなば、後悔いかゞせん、みつからよく思量すべし。
そもそもわれら曠劫よりこのかた、仏の出世にもあひけん、菩薩の化道にもあひけん。過去の諸仏も、現在の如来も、みなこれ宿世の父母なり、多生の朋友なり。
かれはいかにして菩提を証し給へるぞ、われはなにゝよて生死にはとゞまるぞ、はづべしはづべし、かなしむべしかなしむべし。本師釈迦如来の、大罪のやまにいりて、邪見のはやしにかくれて、三業放逸に六情全からざらん衆生を、わか国土にはとりおきて教化度脱せしめんとちかひ給ひたりしは、そもそもいかにしてかゝる衆生をば度脱せしめんとちかひ給ふぞやとたづぬれば、阿弥陀如来の因位の時、无上(諍)念王と申して菩提心をおこし、衆生を過度せしめむとちかひ給ひしに、釈迦如来は寳海梵志と申して、无上(諍)念王、くにのくらゐをすてゝ菩提心をおこし、摂取衆生の願をおこし給ひし時に、この无上(諍)念王も願をおこして、「われかならず穢土にして正覚をなりて、罪業の衆生を引導せん」(悲華経巻三 本授記品意) とちかひ給ひて、この願をおこし給ふ也。曠劫よりこのかた、諸仏出世して、縁にしたがひ、機をはかりて、おのおの衆生を化度し給ふ事、かず塵沙にすぎたり。あるいは大乗をとき小乗をとき、あるひは実教をひろめ権教をひろむ。有縁の機は、みなことごとくその益をう。ここに釈尊、八相成道を五濁悪世にとなえて、放逸邪見の衆生の出離、その期なきをあはれみて、「これより にしに極楽世界あり、仏まします、阿弥陀となづけたてまつる」(小経意)。
このほとけは「乃至十念、若不生者、不取正覚」(大経巻上)とちかひ給ひて、仏になり給へり。すみやかに念ぜよ。出離生死のみちおほしといへども、悪業煩悩の衆生の、とく生死をはなるゝ事、この門にすぎたるはなしとおしへて、ゆめゆめうたがふ事なかれ。「六方恒沙の諸仏も証誠し給ふなり」(小経意) と。
ねんごろにおしへ給ひて、「われもしひさしく穢土にあらば、邪見・放逸の衆生、われをそしりわれをそむきて、かへりて悪道におちなん」(法華経巻五寿量品)。濁世にいでたる事は、本意たゞこの事を衆生にきかしめんかためなりとて、阿難尊者に、「なんぢよくこの事を遐代に流通せよ」(散善義意)と、ねんごろに約束しおきて、跋提河のほとり、沙羅林のもとにして、八十の春の天、二月十五の夜半に、頭北面西にして滅度に入給ひき。その時に、日月ひかりをうしなひ、草木いろを変じ、龍神八部、禽獣・鳥類にいたるまで、天にあふぎてなき、地にふしてさけふ。阿難・目連等のもろもろの大弟子等、悲泣のなみだをおさへて、あひ議していはく、釈尊の恩になれたてまつりて、八十の春秋をおくりき。化縁こゝにつきて、黄金のはだへ、たちまちにへだゝり給ひぬ。あるひはわれら世尊に問たてまつるに、答へ給へる事もありき、あるいは釈尊みづから告給ふ事もありき。済度利生の方便、いまはたれにむかひてか問たてまつるべき。すべからく如来の御ことばをしるしおきて、未来にもつたへ、御かたみともせんといひて、多羅葉をひろひてことごとくこれをしるしおきしを、三蔵たちこれを訳して唐土へわたし、本朝へつたへ給ふ。諸宗につかさどるところの一代聖教これ也。しかるに阿弥陀如来、善導和尚となのりて、唐土にいでゝ、「如来出現於五濁、随宜方便化群萌、或説多聞而得度、或説小解証三明、或教福恵双除障、或教禅念坐思量、種種法門皆解脱、无過念仏往西方、上尽一形至十念、三念五念仏来迎、直為弥陀弘誓重 致使凡夫念即生」{法事讃巻下}との給へり。
釈尊出世の本懐、たゞこの事にありといふべし。「自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩」(礼讃)といへば、釈尊の恩を報ずるは、これたれがためぞや、ひとえにわれらがためにあらずや。このたびむなしくてすぎなば、出離いづれの時をか期せんとする。すみやかに信心をおこして生死を過度すべし。
次に廻向発願心といは、人ことに具しつべき事なり。国土の快楽をきゝて、たれかねがはざらんや。そもそも、かの国土に九品の差別あり、われらいづれの品をか期すべき。善導和尚の御心は、「極楽弥陀は報仏・報土也。未断惑の凡夫、すべてむまるべからずといへども、弥陀の別願の不思議にて、罪悪生死の凡夫、一念・十念してすなはちむまる」(玄義分意) と釈し給へり。しかるを上古よりこのかた、「おほく
下品といふとも足ぬべし」(和漢朗詠集) といひて上品をねがはす。これは悪業のおもきをおそれて心を上品にかけざる也。
もしそれ悪業によらば、総じて往生すべからず。願力によてむまれば、なんぞ上品にすゝまん事をかたしとせん。総じては弥陀浄土をまうけ給事は、願力の成就するゆへなり。
しかれば、又念仏衆生のむまるべき くになり。「乃至十念、若不生者。不取正覚」(大経上) とたて給ひて、この願によて感得し給ふところなるかゆへなり。
いま又『観経』の九品の業をいはば、下品は五逆・十悪の罪人、臨終の時、はじめて善知識のすゝめによて、あるいは十声、あるいは一声称念して、むまるゝ事をえたり。われら罪業おもしといへども、五逆をばつくらず。行業おろそかなりといへども、一声・十声にすぎたり。臨終よりさきに弥陀の誓願を聞得て、随分に信心をいたす。しかれば、下品までくだるべからず。中品は小乗の持戒の行者、孝養、仁・義・礼・智・信等の行人なり。この品には中々にむまれがたし、小乗の行人にもあらず、たもちたる戒もなければ、われらが分にあらず。上品は大乗の凡夫、菩提心等の行なり。
菩提心は諸宗おのおの心えたりといふ。浄土宗の心は、浄土にむまれんとねがふを菩提心といふ。念仏はこれ大乗の行なり、無上功徳なり。しかれば上品往生は手をひくべからず。又本願に「乃至十念」(大経巻上) とたて給ひて、臨終現前の願に「大衆と囲繞せられてその人のまへに現ぜん」(大経巻上) とたて給へり。中品は声聞衆の来迎、下品は化仏の三尊、あるひは金蓮花等の来迎なり。
しかるを大衆と囲繞して現ぜんとたて給へる本願の意趣は、上品の来迎をまうけ給へり、なんぞあながちにあひすまはんや。又善導和尚、「三万已上は上品上生の業」(観念法門意) との給へり。数遍によて上品にむまるべし。又三心について九品あるべし。信心によて上品にむまるべしとみえたり。上品をねがふ事は、わが身のためにはあらず。かのくにゝむまれおはりて、かえりてとく(疾)衆生を化せんがためなり。これあにほとけの御心にかなはざらんや。
次に『阿弥陀経』は、まづ極楽の依正の功徳をとく。これ衆生の願楽の心をすゝめんがためなり。のちに往生の行をあかすに、「少善根をもては むまるゝ事をうべからず。阿弥陀仏の名号を執持して、一日七日すれば、往生する事をう」(小経意) とあかせり。衆生これを信ぜざらん事をおそれて、六方におのおの恒河沙の諸仏ましまして、大千の舌相をのべて証誠し給へり。善導釈していはく、「この証によてむまるゝ事をえずは、六方如来のゝべ給へるした(舌)、ひとたび口よりいでをわりて、ながくくちに還りいらずして、自然に壊爛せん」(観念法門) との給へり。しかればこれをうたがはんものは、弥陀の本願をうたがふのみにあらず、釈尊の所説をうたがふなり。釈尊の所説をうたがふは、六方恒沙の諸仏の所説をうたがふなり。すなはちこれ大千にのべ給へる舌相を壊爛する也。もし又これを信ぜば、たた弥陀の本願を信ずるのみにあらず釈尊の所説を信ずるなり。釈尊の所説を信ずるは、六方恒沙の諸仏の所説を信ずる也。一切の諸仏を信ずるは、一切の法を信ずるになる。一切の法を信ずるは、一切の菩薩を信ずるになる。この信ひろくして広大の信心なり。
善導和尚のいわく、
御誓言の書(一枚起請文)
- 御誓言の書 第二
もろこし・わが朝にも、もろもろの智者たちの沙汰し申さるゝ観念の念にもあらず。又学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがひなく往生するぞとおもひとりて申すほかには別の子細候はず。たゞし三心・四修なんど申す事の候は、みな决定して、南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもふうちにこもり候なり。
このほかにおくふかき事を存ぜば、二尊の御あはれみにはづれ、本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の御のりをよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の无智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、たゞ一向に念仏すべし。
- これは御自筆の書なり、勢観聖人にさづけられき。
往生大要抄
深信釈ではいわゆる深心を二種に開いて釈する所以は、法の深信のみでは、自身の器量を怯弱して、罪をもつくらぬ人の、甚深のさとりをおこした勝れた人のみが称える念仏の法門であると誤解するおそれがあるゆえ、善導和尚は機の深心を釈されたとする。また信心とは、感情に駆られた「心のぞみぞみと身のけもいよだち、なみたもおつるをのみ信のおこると申すはひが事」であるとし、疑いを除くことが信心であるとする。行と信に関しては「つよく信ずるかたをすすむれば邪見をおこし、邪見をおこさせじとこしらふれば、信心つよからずなるが術(すべ)なき事にて侍る也」と嘆いておられるが、一念義に立って造悪無碍の邪見に陥る輩も多かったのであろう。ある意味では、現代人の、ありもしない自己の拵えた信に迷う者も邪見であろう。
- 往生大要抄 第三
いまわが浄土宗には、二門をたてゝ釈迦一代の説教をおさむるなり。いはゆる聖道門・浄土門なり。はじめ花厳・阿含より、おはり法花・涅槃にいたるまで、大小乗の一切の諸経にとくところの、この娑婆世界にありながら、断迷開悟のみちを、聖道門とは申すなり。これにつきて大乗の聖道あり、小乗の聖道あり。大乗にも二あり、すなわち仏乗と菩薩乗と也。小乗に二あり、すなわち声聞と、縁覚との二乗なり。これをすべて四乗となづく。仏乗とは即身成仏の教なり。真言・達磨・天台・花厳等の四乗(宗)にあかすところなり。すなはち真言宗には、「父母所生身、速証大覚位」[3]{菩提心論}と申して、この身ながら、大日如来のくらゐいにのぼるとならふ也。
仏心宗[4]には、「前仏後仏以心伝心」(達磨大師血脈論)[5]とならひて、たちまちに人の心をさしてほとけと申なり。かるがゆえに即心是仏の法となづけて、成仏とは申さぬなり。この法は、釈尊入滅の時、『涅槃経』をときおはりてのち、たゞ一偈をもちて迦葉尊者に付嘱し給へる法なり[6]。
天台宗には、煩悩即菩提 生死即涅槃と観じて、観心にてほとけになるとならふ也。八歳の竜女が南方無垢世界にして、たちまちに正覚をなりし、その証なり。[7]
花厳宗には、「初発心時 便成正覚」[8]{晋訳華厳経巻八梵行品}とて、又即身成仏とならふなり。これらの宗には、みな即身頓証のむねをのべて、仏乗となづくる也。
つぎに菩薩乗といは、歴劫修行成仏の教なり、三論・法相の二宗にならふところなり。すなはち三論宗には、八不中道の無相の観に住して、しかも心には四弘誓願をおこし、身には六波羅蜜を行じて、三僧祇に菩薩の行を修してのち、ほとけになると申す也。
法相宗には、五重唯識[9]の観に住して、しかも四弘をおこし、六度を行じて三祇劫をへて、ほとけになると申す也。これらを菩薩乗となづく。つぎに縁覚乗といは、飛花落葉を見て、ひとり諸法の無常をさとり、あるいは十二因縁を観じて、とき(疾) は四生、おそきは百劫にさとりをひらくなり。
つぎに声聞乗といは、はじめ不浄・数息を観ずるより、おはり四諦の観にいたるまで、ときは三生、おそきは六十劫に、四向三果のくらゐをへて、大阿羅漢の極位にいたる也。この二乗の道は、成実・倶舎の両宗にならふところ也。又声聞につきて、戒行をそなふべし。比丘は二百五十戒を受持し、比丘尼は五百戒を受持するなり。これを五篇・七聚の戒となづくる也。又沙弥・沙弥尼の戒、式沙摩尼の六法、優婆塞・優婆夷の五戒、みなこれ律宗の中にあかすところ也。
およそ(この四乗の聖道は)大小乗をえらばず、この四乗の聖道は、われらが身にたへ、時にかなひたる事にてはなき也。もし声聞のみちにおもむくは、二百五十戒たもちがたし、苦・集・滅・道の観成じがたし。もし縁覚の観をもとむとも、飛花落葉のさとり、十二因縁の観、ともに心もおよばぬ事也。(又菩薩の行におゐては、)三聚・十重の戒行発得しがたし、四弘・六度の願行成就しがたし。
身子(舎利弗)は六十劫まで修行して、乞眼の悪縁にあひて、たちまちに菩薩の広大の心をひるがへしき。いはんや末法のこのごろをや、下根のわれらをや。たとひ即身頓証の理を観ずとも、真言の入我々入[10]・阿字本不生の観[11]、天台の三観・六即・中道実相の観、花厳宗の法界唯心の観、仏心宗の即心是仏の観、理はふかく、解は〔あさ〕し。
かるがゆへに末代の行者、その証をうるに、きはめてかたし。このゆへに、道綽禅師は「聖道の一種は今の時は証しがたし」{安楽集巻上]}とのたまへり。すなはち『大集の月蔵経』をひきて、おのおの行ずべきありようをあかせり。こまかにのぶるにおよばず。
つぎに浄土門は、まづこの娑婆世界をいとひすてゝ、いそぎてかの極楽浄土にむまれて、かのくにゝして仏道を行ずる也。しかればかつがつ浄土にいたるまでの願行をたてゝ、往生をとぐべきなり。
しかるにかのくに々にむまるゝ事は、すべて行者の善悪をゑらばず。たゞほとけのちかひを信じ信ぜざるによる。五逆・十悪をつくれるものも、たゞ一念・十念に往生するは、すなはちこのことはり也。このゆへに道綽は、「ただ浄土の一門の〔み〕ありて、通入すべきみちなり」{安楽集巻上}と釈し給へり。
「通じているべし」といふにつきて、わたくしに心うるに、二つの心あるべし。一にはひろく通じ、二にはとをく通ず。ひろく通ずといは、五逆の罪人をあげてなお往生の機におさむ、いはんや余の軽罪をや、いかにいはんや善人をやと心えつれば、往生のうつはものにきらはるゝものなし。かるがゆえにひろく通ずといふ也。とをく通ずといは、「末法万年のゝち法滅百歳まで、この教とどまりて、その時にききて、一念する、みな往生す」{大経巻下意}といへり。
いはんや末法のなかをや、いかにいはんや正法・像法をやと心えつれば、往生の時もるゝ世なし。かるがゆへにとおく通ずといふなり。
しかればこのごろ生死をはなれんとおもはんものは、難証の聖道をすてて、易往の浄土をねがふべき也。又この聖道・浄土をば、難行道・易行道となづけたり。たとへをとりてこれをいふには、「難行道とは、さかしきみちをかち[12]よりゆかんがごとし。易行道とは、海路をふねよりゆくがご」(十住論巻五易行品意)としといへり。しかるに目しゐ足なえたらんものは、陸地にはむかふべからず、ただふねにのりてのみ むかひのきしにはつくべき也。しかるにこのごろ、われらは智恵のまなこしゐて、行法のあしおれたるともがら也。
聖道難行のさかしきみちには、すべてのぞみをたつべし。ただ弥陀の願のふねにのりてのみ、生死のうみをわたりて、極楽のきしにはつくべきなり。いまこのふねといは、すなはち弥陀の本願にたとふる也。この本願といは、四十八願也、そのなかに、第十八の願をもて、衆生の往生のさだめたる本願とせり。二門の大旨、略してかくのごとし。聖道の一門をさしおきて、浄土の一門にいらんとおもわん人は、道綽・善導の釈をもて、所依の三部経を習ふべきなり。
さきには聖道・浄土の二門を分別して、浄土門にいるべきむねを申ひらきつ。いまは浄土の一門につきて、修行すべきやうを申すべし。
浄土に往生せんとおもはば、心と行との相応すべきなり。かるがゆへに善導の釈にいはく、「ただしその行のみあるは、行すなはちひとりにして、又いたるところなし。ただその願のみあるは、願すなはちむなしくして、又いたるところなし。かならず願と行とをあひともにたすけて、ためにみな剋するところ也。およそ往生のみにかぎらず、聖道門の得道をもとめんにも、心と行とを具すべし」{玄義分意}といへり。発心修行となづくる、これなり。
いまこの浄土宗に、善導のごとくは安心・起行となづけたり。まづその安心といは、『観無量寿経』にといていはく、「もし衆生ありて、かのくにゝむまれんとねがはんものは、三種の心をおこしてすなはち往生すべし。なにをか三とする、一には至誠心、二には深心、三には迥向発願心なり。三心を具するものは、かならずかのくににむまる」といへり。善導和尚の『観経の疏』、ならびに『往生礼讃』の序に、この三心を釈し給へり。
一に至誠心といは、まづ『往生礼讃』の文をいださば、「一には至誠心。いはゆる身業にかのほとけを礼拝せんにも、口業にかのほとけを讃嘆称揚せんにも、意業にかの仏を専念観察せんにも、およそ三業をおこすには、かならず真実をもちゐよ。かるがゆへに至誠心となづく」といへり。
つぎに『観経の疏』(散善義意) の文をいださば、「一に至誠心といは、至といは真也、誠といは実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心の中になすべき事をあかさんとおもふ。ほか(外) には賢善精進の相を現じて、内には虚仮をいだく事なかれ。善の三業をおこす事は、かならず真実心のなかになすべし。内外明闇をゑらばず、みな真実をもちゐよ」{散善義}といへり。
この二つの釈をひいて、わたくしに料簡するに、至誠心といは真実の心なり。その真実といは、内外相応の心なり。身にふるまひ、口にいひ、意におもはん事、みな人めをかざる事なく、ま事をあらはす也。しかるを、人つねにこの至誠心を、熾盛心と心えて、勇猛強盛の心をおこすを、至誠心と申すは、この釈の心にはたがふ也。文字もかはり、心もかはりたるものを。さればとて、その猛利の心は、すべて至誠心をそむくと申にはあらず。それは至誠心のうゑの熾盛心にてこそあれ。真実の至誠心を地にして、熾盛なるはすぐれ、熾盛ならぬはおとるにてある也。これにつきて、九品の差別までもこゝろうべき也。
されば善導の『観経の疏』(散善義) に、九品の文を釈するしたに、一一の品ごとに、「弁定三心以為正因」[13]とさだめて、「この三心は九品に通ずべし」{散善義意}と釈し給へり。恵心も是をひきて、「禅師の釈のごときは、理九品に通ずべし」{往生要集巻中本}とこそはしるされたれ。この三心の中、かの至誠心なれば、至誠心すなはち九品に通ずべき也。又至誠心は、深心と廻向発願心とを体とす。この二をはなれては、なにによりてか、至誠心をあらはすべき。ひろくほかをたづぬべきにあらず。深心も廻向発願心もまことなるを至誠心とはなづくる也。
三心すでに九品に通ずべしと心えてのうへには、その差別のあるやうをこころうるに、三心の浅深強弱によるべき也。かるがゆへに上品上生には、『経』(観経)に、「精進勇猛なかるがゆへに」とゝき、『釈』には「日数すくなしといへども、作業はげしきがゆへに」(玄義分)といへり。又上品中生をば、「行業やゝよはくして」と釈し、上品下生をば、「行業こわからず」なんど釈せられたれば、三心につきて、こわきもよはきもあるべしとこそこゝろえられたれ。よはき三心具足したらん人は、くらゐこそさがらんずれ、なを往生はうたがふべからざる也。
それに強盛の心をおこさずば、至誠心かけて、ながく往生すべからずと心えて、みだりに身をもくだし、あまさへ人をもかろしむる人々の不便におぼゆる也。
さらなり[14]強盛の心のおこらんは、めでたき事なり。『善導の十徳』の中に、はじめの至誠念仏の徳をいだすにも、「一心に念仏して、ちからのつくるにあらざればやまず、乃至寒冷にも又あせをながす、この相状をもて至誠をあらはす」なんどあるなれば、たれだれもさこそははげむべけれ。たゞしこの定なるをのみ至誠心と心えて、これにたがわんをば至誠心かけたりといはんには、善導のごとく至誠心至極して、勇猛ならん人ばかりぞ往生はとぐべき。われらがごときの尫弱[15] の心にては、いかが往生すべきと臆せられぬべき也。
かれは別して善導一人の徳をほむるにてこそあれ、これは通じて一切衆生の往生を决するにてあれば、たくらふべくもなき事也。所詮はたゞわれらがごときの凡夫、をのをの分につけて、強弱真実の心をおこすを、至誠心となづけたるとこそ、善導の釈の意は見えたれ。
文につきてこまかに心うれば、「ほかには賢善精進の相を現じ、内には虚仮をいだくことなかれ」といふは内にはをろか(愚)にして、ほかにはかしこき相を現じ、うちには悪をのみつくりて、ほかには善人の相を現じ、うちには懈怠にして、ほかには精進の相を現ずるを、虚仮とは申す也。
外相の善悪をばかへり見ず、世間の謗誉をばわきまへず、内心に穢土をもいとひ、浄土をもねがひ、悪をもとゞめ、善をも修して、まめやかに仏の意にかなはん事をおもふを、真実とは申也。
真実は虚仮に対することば也。真と仮と対し、虚と実と対するゆへなり。この真実虚仮につきてくはしく分別するに、四句の差別あるべし。
一には、ほかをかざりて、うちにはむなしき人。二には、ほかをもかざらずうちもむなしき人。三には、ほかはむなしく見えて、内は ま事ある人。四には、ほかにもまことをあらはし、うちにもまことある人。かくのごときの四人の中には、さきの二人をば、ともに虚仮の行者といふべし。
のちの二人をば、ともに真実の行者といふべし。しかれば、たゞ外相の賢愚・善悪をばゑえらばず、内心の邪正・迷悟によるべき也。およそこの真実の心は、人ごとに具しがたく、事にふれてかけやすき心ばへなり。おろかにはかなしといましめられたるやうもあることはり也。無始よりこのかた、今身にいたるまで、おもひならはして さしもひさしく心をはなれぬ名利の煩悩なれば、たたんとするにやすらかに はなれ(離)がたきなりけりと、おもひゆるさるゝかたもあれども、又ゆるしはんべるべき事ならねば、わが心をかへりみて、いましめ なをすべき事なり。しかるにわが心の程もおもひしられ、人のうゑをも見るに、この人め かざる心ばへは、いかにもいかにもおもひはなれぬこそ、返々 心うくかなしくおぼゆれ。
この世ばかりをふかく執する人は、たゞまなこのまへのほめられ、むなしき名をもあげんとおもはんをば、いふにたらぬ事にておきつ[16]。
うき世をそむきて、まことのみちにおもむきたる人々のなかにも、返りてはかなくよしなき事かなとおぼゆる事もある也。
むかしこの世を執する心のふかゝりしなごりにて、ほどほどにつけたる名利をふりすてたるばかりを、ありがたくいみじき事におもひて、やがてそれを、この世さまにも心のいろのうるせき[17]にとりなしてさとりあさき世間の人の心のそこをばしらず、うゑにあらはるゝすがた事がらばかりを、たとがりいみじかるをのみ本意におもひて、ふかき山ぢ(路)をたづね、かすか(幽)なるすみかをしむるまでも、ひとすぢに心のしづまらんためとしもおもはで、おのづからたづねきたらん人、もしはつたへきかん人の、おもはん事をのみさきだて〔ゝ、〕まがきのうち庭のこだち、菴室のしつらひ、道塲の荘厳など、たとくめでたく、心ぼそく物あはれならむ事がらをのみ、ひきかまへんと執するほどに、罪の事も、ほとけのおぼしめさん事をもかへりみず、人のそしりにならぬ様をのみ おもひ いとなむ事よりほかにはおもひまじふる事もなくて、ま事しく往生をねがふべきかたをば思もいれぬ事なんどのあるが、やがて至誠心かけて往生せぬ心ばへにてある也。
又世をそむきたる人こそ、中々ひじり名聞もありて さやうにもあれ、世にありながら往生をねがはん人は、この心は何ゆへにかあるべきと申す人のあるは、なをこまやかに心えざる也。世のほまれをおもひ、人めをかざる心はなに事にもわた〔る〕事なれば、ゆめまぼろしの栄花重職をおもふのみにはかぎらぬ事にてある也。
中々在家の男女の身にて後世をおもひたるをば、心ある事のいみじくありがたきとこそは人も申す事なれば、それにつけてほかをかざりて、人にいみじがられんとおもふ人のあらんもかたかるべくもなし。まして世をすてたる人なんどにむかひては、さなからん心をも、あはれをしり ほかにあひしらはんために、後世のおそろしさ、この世のいとはしさなんどは申すべきぞかし。
又か様に申せば、ひとへにこの世の人めはいかにもありなんとて、人のそしりをもかへりみず、ほかをかざらねばとて、心のままにふるまふがよきと申すにてはなき也。菩薩の譏嫌戒とて、人のそしりになりぬべき事をばなせそとこそ、いましめられたれ。こればはう[18]にまかせてふるまへば、放逸とてわろき事にてあるなり。それに時にのぞみたる譏嫌戒のためばかりに、いさゝか人めをつゝむかたは、わざともさこそあるべき事を、人目をのみ執してま事のかたをもかへり見ず、往生のさはりになるまでに、ひきなさるる事の返々もくちおしき也。
譏嫌戒となづけて、やがて虚仮になる事もありぬべし。真実といひなして、あまり放逸なる事もありぬべし。これをかまへてかまへて、よくよく心えとくべし。詞(ことば)なをたらぬ心ちする也。
又この真実につきて、自利の真実、利他の真実あり。又三界六道の自他の依正をいとひすてゝ、かろしめいやし〔めんに〕も、阿弥陀仏〔の〕依正二報を、礼拝・讃嘆・憶念せんにも、およそ厭離穢土・欣求浄土の三業にわたりて、みな真実なるべきむね、『疏』の文につぶさ也。その文しげくして、ことごとくいだすにあたはず、至誠心のありさま略してかくのごとし。
二に深心といは、まづ『礼讃』の文にいはく、「二者深心、すなはち真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫なり。善根薄少にして三界に流転して火宅をいでずと信知して、いま弥陀の本弘誓願の名号を穪する事 しも十声・一声にいたるまで、さだめて往生する事をうと信知して、乃至一念もうたがふ心ある事なかれ。かるがゆへに深心となづく」〔とい〕へり。
つぎに『観経の疏』{散善義意}の文にいはく、「二に深心といは、すなはちこれ深信の心なり。又二種あり。一には决定してふかく、自身は現に是罪悪生死の凡夫也、曠劫より此かた常没流転して、出離の縁ある事なしと信ぜよ。
二には决定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願をもて、衆生を摂受し給ふ事、うたがひなくおもんぱかりなく、かの願力に乗じて、さだめて往生する事をうと信じ、又决定してふかく釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善をときて、かのほとけの依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめ給ふ事を信じ、又决定してふかく、『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏の、一切の凡夫决定してむまるゝ事をうと証勧し給へり。ねがはくは一切の行者、一心にたゞ仏語を信じて身命をかへりみず、决定してより行じて、ほとけの捨しめ給はん事をばすなはちすて、ほとけの行ぜしめ給はん事をばすなはち行じ、ほとけのさらしめ給はんところをばすなはちされ。これを仏教に随順し、仏意に随順すとなづく、これを真の仏弟子となづく。
又深心を深信といは、决定して自心を建立して、教に順じて修行して、ながく疑錯をのぞきて、一切の別解・別行、異学・異見・異執のために、退失し傾動せられざれ」といへり。
わたくしにこの二つの釈を見るに、文に広略あり、言(こと)ばに同異ありといへども、まづ二種の信心をたつる事は、そのおもむきこれひとつなり。すなはち二の信心といは、はじめに「わが身〔は〕煩悩罪悪の凡夫なり、火宅をいでず、出離の縁なしと信ぜよといひ、つぎには「决定往生すべき身なりと信じて一念もうたがふべからず、人にもいひさまたげらるべからず」なんどいへる、
前後のことば相違して心えがたきにに(似)たれども、心をとどめてこれを案ずるに、はじめにはわが身のほどを信じ、のちにはほとけの願を信ずる也。
たゞしのちの信心を决定せしめんがために、はじめの信心をばあぐる也[19]。そのゆへは、もしはじめのわが身を信ずる様をあげずして、ただちに後のほとけのちかひばかりを信ずべきむねをいだしたらましかば、もろもろの往生をねがはん人、雑行を修して本願をたのまざらんをばしばらくおく。
まさしく弥陀の本願の念仏を修しながらも、なを心にもし貪欲・瞋恚の煩悩をもおこし、身におのづから十悪・破戒等の罪業をもおかす事あらば、みだりに自身を怯弱して、返りて本願を疑惑しなまし。まことにこの弥陀の本願に、十声・一声にいたるまで往生すといふ事は、おぼろげの人にてはあらじ。妄念をもおこさず、つみをもつくらぬ人の、甚深のさとりをおこし、強盛の心をもちて申したる念仏にてぞあるらん。われらごときのえせものどもの、一念・十声にてはよもあらじとこそおぼえんもにくからぬ事也。
これは善導和尚は、未来の衆生のこのうたがひをおこさん事をかへりみて、この二種の信心をあげて、われらがごとき煩悩をも断ぜす、罪悪をもつくれる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願を信じて念仏すれば、十声・一声にいたるまで决定して往生するむねをば釈し給へる也。
かくだに釈し給はざらましかば、われらが往生は不定にぞおぼえまし。あやうくおぼゆるにつけても、この釈の、ことに心にそみておぼえはんべる也。
さればこの義を心えわかぬ人にこそあるめれ。ほとけの本願をばうたがはねども、わが心のわろければ往生はかなはじと申あひたるが、やがて本願をうたがふにて侍る也。さやうに申したちなば、いかほどまでかほとけの本願にかなはず、さほどの心こそ本願にはかなひたれとは しり侍るべき。それをわきまへざらんにとりては、煩悩を断ぜさらんほどは、心のわろさはつきせぬ事にてこそあらんずれば、いまは往生してんとおもひたつ世はあるまじ、又煩悩を断じてぞ、往生はすべきと申すになりなば、凡夫の往生といふ事はみなやぶれなんず。すでに弥陀の本願力といふとも、煩悩罪悪の凡夫をば、いかでかたすけ給ふべき。えむかへ給はじ物をなんど申すになるぞかし。ほとけの御ちからをばいかほどとしるぞ。それにすぎて、ほとけの願をうたがふ事はいかがあるべき、又ほとけにたちあひまいらするとがありなんど申すべき事にてこそあれ。すべてわが心の善悪をはからひて、ほとけの願にかなひかなはざるを心えあはせん事は、仏智ならではかなふまじき事也。されば善導は『観経の疏』の一のまき{玄義分}に、弘願を釈するに、「一切善悪の凡夫むまるることをうる事は、阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふ事なし」といひおきて、「ほとけの密意弘深にして教門さとりがたし、三賢・十聖もはかりてうかがふところにあらず、いはんや、われ信外の軽毛なり、あへて旨趣をしらんや」とこそは釈し給ひたれば、善導だにも十信にだにもいたらぬ身にて、いかでかほとけの御心をしるべきとこそは、おほせられたれば、ましてわれらがさとりにて ほとけの本願をはからひしる事は、ゆめゆめおもひよるまじき事也。
ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。 かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定なり、一定とおもへばやがて一定する事なり。
所詮は深信といは、かのほとけの本願は、いかなる罪人をもすてず、ただ名号をとなふる事一声までに、决定して往生すと ふかくたのみて、すこしのうたがひもなきを申す也。
- ↑ 淳仁天皇
- ↑ 人は旧きを貴び、器は新しきを貴ぶ。
- ↑ 父母所生の身にすみやかに大覚位を証す。
- ↑ 経論などの文字などによらず、ただちに仏心を悟ることを教える禅宗のこと。
- ↑ 前仏後仏以心伝心(ぜんぶつ-ごぶつ-いしん-でんしん)。前の仏と後の仏と、心を以て心を伝う。禅宗では悟れば仏であるから先師を仏とするので前仏後仏というのであろう。ともあれ日本人固有の、言葉ではなく場の雰囲気からの空気を読むという、以心伝心という概念語の嚆矢かもである。禅語本来の意味は違うのだが、日本語のこころという捉えどころのない概念に陥ると以心伝心という禅仏教語は理解できないのであろうと思ふ。
- ↑ 拈華微笑(ねんげ-みしょう)という四事熟語がある。シナで作られた寓話であるが漢訳仏典によって仏教を理解しようとした日本では事実であると受け取られていた。
- ↑ 『法華経』提婆達多品第12の八歳の竜女の即身成仏のこと。
- ↑ 「初発心時 便成正覚(初発心の時にすなわち正覚を成ず)。最初に菩提心を発した時に仏の正覚を成じるということ。菩薩の階位の十信の満位に成仏するとするので、信満成仏という。御開山によれば浄土真宗の信とは、願作仏心・度衆生心の菩提心である。「信巻」で『華厳経』入法界品を引文し「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」とされた所以であった。
- ↑ 法相宗で、唯識の道理を段階的に五種に区別して示したもの。これらを順次観じて、すべての存在が心の作用にすぎないことを悟るに至るという。
- ↑ 密教の観法で、如来の身・口・意の三つのはたらきが自分の中にはいりこむと同時に、自分の身・口・意のはたらきが如来の中にはいり込み、両者が一体となること。また、そのように観ずること。
- ↑ 密教の根本思想の一。一切諸法の本源が不生不滅である、すなわち空であることを、阿字が象徴しているという考え。阿字とは、梵語の字母の第一。密教ではこの字に特殊な意義を認め、宇宙万有を含むと説く。
- ↑ 徒(かち)。徒歩で行くこと。
- ↑ 三心を弁定してもつて正因となす。
- ↑ 言うまでもなく。言うも更なり。
- ↑ 尫弱(おうじゃく)。かよわいこと。ひよわいこと。弱々しいこと。
- ↑ おきつ。取り計らう、計画すること。いふに足らない計(はから)いであること。
- ↑ うるせき。すぐれている。巧みである。
- ↑ はう。生う。生じること。生じたまままに。
- ↑ ここで「のちの信心~はじめの信心」とは疏文の一者決定、二者決定を指しているのであって、機の深信が法の深信の条件と言われているのではない。このことは直前で「はじめにはわが身のほど」とし「つぎには决定往生すべき身」とされていることからも判る。あくまで機・法の二種深信は一具である。このはじめを一とし、のちを二とし、数が一から二へそして三へと至るように「はじめにはわが身のほど」の機の深信から順次展開するプロセスが信心のであると誤解する者がいた。『愚禿鈔』釈下の《第一の深信は、「決定して自身を深信する》と、すなはちこれ自利の信心なり。」の文は機の深信単独では「自利の信心」(自力)ではあるが、その自力の機が阿弥陀仏の「利他の信海」である法の深信に包摂されるのである。