「自性唯心」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(同じ利用者による、間の3版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
じしょう-ゆいしん | じしょう-ゆいしん | ||
− | + | [[gooj:万有|万有]]はその本性についていえば、ただ心の変現にほかならないもので、自己の心以外に何ものもないとする聖道門の考え。 | |
この立場より自己の心性を指して直ちに弥陀といい、この心を[[浄土]]であると主張する。[[聖道門]]の立場。([[信巻本#P--209|信巻 P.209]], [[講私記#P--1069|講私記 P.1069]]) | この立場より自己の心性を指して直ちに弥陀といい、この心を[[浄土]]であると主張する。[[聖道門]]の立場。([[信巻本#P--209|信巻 P.209]], [[講私記#P--1069|講私記 P.1069]]) | ||
7行目: | 7行目: | ||
{{Copyright}} | {{Copyright}} | ||
---- | ---- | ||
− | + | 自性唯心(自らの性は、ただ心のみ)<br /> | |
{{Inyou2| | {{Inyou2| | ||
じしょう-ゆいしん 自性唯心 | じしょう-ゆいしん 自性唯心 | ||
− | + | [[gooj:万有|万有]]はその本性についていえば、ただ心の変現にほかならないもので、自己の心以外に何ものもないとする考え。 この立場より自己の心性を指してただちに弥陀といい、この心を浄土であると主張する。このように弥陀も浄土もともに自己の心の中にあることを 「己心の弥陀、唯心の浄土」 あるいは 「己心の浄土、唯心の弥陀」 という。親鸞はこれを 「信巻」 別序で | |
− | : 「末代の道俗、近世の宗師、[[自性唯心]]に沈みて浄土の真証を貶す」 | + | : 「末代の道俗、近世の宗師、[[自性唯心]]に沈みて浄土の真証を貶す」 ([[信巻本#P--209|註 209]]) |
と批判している。浄土門では弥陀と浄土が自己の己心の外に説かれることの意義を強調する。→[[指方立相]](浄土真宗辞典) | と批判している。浄土門では弥陀と浄土が自己の己心の外に説かれることの意義を強調する。→[[指方立相]](浄土真宗辞典) | ||
}} | }} | ||
23行目: | 23行目: | ||
浄土門では、この世でのさとりの完成を目指す聖道門と違い、弥陀と浄土が自己の心の外に説かれることの、往生浄土の意義を重視するからである。 | 浄土門では、この世でのさとりの完成を目指す聖道門と違い、弥陀と浄土が自己の心の外に説かれることの、往生浄土の意義を重視するからである。 | ||
− | このような浄土教の穢土と浄土の二元的な思想は、自身の煩悩を凝視せず、迷いとさとりを同一視する一元論の観念論に陥っていた当時の[[ | + | このような浄土教の穢土と浄土の二元的な思想は、自身の煩悩を凝視せず、迷いとさとりを同一視する一元論の観念論に陥っていた当時の[[本覚思想]]への批判でもあった。帰すべき浄土をもたない現代人や、浄土真宗の僧侶の中にも、このような輩は多い。 |
:→[[己身の弥陀唯心の浄土]] | :→[[己身の弥陀唯心の浄土]] | ||
:→[[指方立相]] | :→[[指方立相]] |
2024年1月28日 (日) 23:48時点における最新版
じしょう-ゆいしん
万有はその本性についていえば、ただ心の変現にほかならないもので、自己の心以外に何ものもないとする聖道門の考え。
この立場より自己の心性を指して直ちに弥陀といい、この心を浄土であると主張する。聖道門の立場。(信巻 P.209, 講私記 P.1069)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
自性唯心(自らの性は、ただ心のみ)
じしょう-ゆいしん 自性唯心
万有はその本性についていえば、ただ心の変現にほかならないもので、自己の心以外に何ものもないとする考え。 この立場より自己の心性を指してただちに弥陀といい、この心を浄土であると主張する。このように弥陀も浄土もともに自己の心の中にあることを 「己心の弥陀、唯心の浄土」 あるいは 「己心の浄土、唯心の弥陀」 という。親鸞はこれを 「信巻」 別序で
- 「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」 (註 209)
と批判している。浄土門では弥陀と浄土が自己の己心の外に説かれることの意義を強調する。→指方立相(浄土真宗辞典)
存在するすべての物・事はその本性についていえば、ただ心が描き出したものであるから、自己の心以外に何ものもないとする唯識の思想。この立場より自己の心性を指して直ちに弥陀といい、その心を浄土であると主張する。
このように弥陀も浄土もともに自己の心の中にあることを「
しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。(信巻 P.209)
と、自性唯心であり、西方の真実の証(さとり)の世界である浄土を知らないからであると批判しておられる。
浄土門では、この世でのさとりの完成を目指す聖道門と違い、弥陀と浄土が自己の心の外に説かれることの、往生浄土の意義を重視するからである。
このような浄土教の穢土と浄土の二元的な思想は、自身の煩悩を凝視せず、迷いとさとりを同一視する一元論の観念論に陥っていた当時の本覚思想への批判でもあった。帰すべき浄土をもたない現代人や、浄土真宗の僧侶の中にも、このような輩は多い。
- →己身の弥陀唯心の浄土
- →指方立相
- →足の指…