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「正念」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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しょうねん
 
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Ⅰ 他力信心のこと。([[行巻#P--165|行巻 P.165]], [[化巻本#P--389|化巻 P.389]]) 
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Ⅱ 臨終正念の意。死に臨んで、妄案を起こすことなく、正しく阿弥陀仏を念じていること。([[歎異抄#P--846|歎異抄 P.846]])
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Ⅱ 臨終正念の意。死に臨んで、妄案を起こすことなく、正しく阿弥陀仏を念じていること。([[歎異抄#P--846|歎異抄 P.846]])
  
 
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しょうねん 正念
  
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:Ⅰ 正しい憶念。教えを保って忘れないこと。八正道の一。
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:Ⅱ 他力回向の行、または信を表す語。『愚禿鈔』には
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::「正念の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり」 ([[P:538|註 538]]) とある。
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浄土教における正念とは、命の終りに臨んで一心に阿弥陀仏を念ずる臨終正念を指す。仏の来迎によって正念に住し、三種の愛心を離れ往生するとされる。ただし、念仏するから来迎があるのではなく、念仏衆生摂取不捨のゆえに来迎があり、来迎によって正念に住するのである。<br />
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通常の仏教においては[[八正道]]の一である正念のことで、邪なはからい(思慮)を離れて、物事の本質をあるがままに心にとどめ、常に真理を求める心を忘れないこと。正しい思念の意をいう。<br />
親鸞聖人は、「行巻」で南無阿弥陀仏が正念であるとされる。
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浄土教における正念とは、命の終りに臨んで一心に阿弥陀仏を念ずる臨終正念を指す。仏の[[来迎]]によって正念に住し、[[三種の愛心]]を離れ往生するとされる。法然聖人は、正念に住するから来迎があるのではなく、念仏衆生摂取不捨のゆえに来迎があり、来迎によって正念に住するのであるとされた。ただし浄土真宗では来迎を論じない。<br />
: しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
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この正念は、行を示すという解釈と、信を示すという解釈があるが、両方に通じる意と解するのが適当である。『愚禿鈔』に
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親鸞聖人は、「行巻」で南無阿弥陀仏は正念であるとされる。
:正念の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
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:爾者称名 能破衆生一切無明 能満衆生一切志願。
とあるので、行・信に通じていると見るのが妥当であろう。
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:称名則是 最勝真妙正業。正業則是念仏。念仏則是 南無阿弥陀仏。
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:南無阿弥陀仏 '''即'''是正念也。可知。
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::しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏は{{DotUL|すなはち}}これ'''正念'''なりと、知るべしと。([[顕浄土真実行文類#no12|行巻 P.146]])
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ここでの正念は、行を示すという解釈と、信を示すという解釈があるが、信に通じる意と解するのが妥当である。則という語で称名を転釈され'''「[[即]]」'''という語で即(すなわ)ち正念とされておられるのはその意であろう。<br />
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『御消息』には、
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と「第一希有の行」ともあるので、[[行信|行・信]]に通じていると見るのが妥当であろう。御開山にとっては、なんまんだぶと称え聞く「行」は、即ち本願招喚の阿弥陀如来の「[[信]]」の[[勅命]]に「[[信順]]」することであった。
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2024年2月5日 (月) 13:20時点における最新版

しょうねん

Ⅰ 他力信心のこと。(行巻 P.165, 化巻 P.389) 

Ⅱ 臨終正念の意。死に臨んで、妄案を起こすことなく、正しく阿弥陀仏を念じていること。(歎異抄 P.846)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

しょうねん 正念

Ⅰ 正しい憶念。教えを保って忘れないこと。八正道の一。
Ⅱ 他力回向の行、または信を表す語。『愚禿鈔』には
「正念の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり」 (註 538) とある。
Ⅲ 臨終正念の意。死に臨んで、妄念を起すことなく、正しく阿弥陀仏を念じていること。→四種往生の一。


通常の仏教においては八正道の一である正念のことで、邪なはからい(思慮)を離れて、物事の本質をあるがままに心にとどめ、常に真理を求める心を忘れないこと。正しい思念の意をいう。
浄土教における正念とは、命の終りに臨んで一心に阿弥陀仏を念ずる臨終正念を指す。仏の来迎によって正念に住し、三種の愛心を離れ往生するとされる。法然聖人は、正念に住するから来迎があるのではなく、念仏衆生摂取不捨のゆえに来迎があり、来迎によって正念に住するのであるとされた。ただし浄土真宗では来迎を論じない。

親鸞聖人は、「行巻」で南無阿弥陀仏は正念であるとされる。

爾者称名 能破衆生一切無明 能満衆生一切志願。
称名則是 最勝真妙正業。正業則是念仏。念仏則是 南無阿弥陀仏。
南無阿弥陀仏 是正念也。可知。
しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(行巻 P.146)

ここでの正念は、行を示すという解釈と、信を示すという解釈があるが、信に通じる意と解するのが妥当である。則という語で称名を転釈されという語で即(すなわ)ち正念とされておられるのはその意であろう。
『御消息』には、

正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑに、かならず無上涅槃にいたるなり。(消息 P.735)

とあり、『愚禿鈔』には、

正念の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。(愚禿鈔p.538)

と「第一希有の行」ともあるので、行・信に通じていると見るのが妥当であろう。御開山にとっては、なんまんだぶと称え聞く「行」は、即ち本願招喚の阿弥陀如来の「」の勅命に「信順」することであった。

信知
信順
信受

参照WEB版浄土宗大辞典の「正念」の項目