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「無生の生」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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【左訓】「[[六道]]の生を離れたる生なり。[[六道]][[四生]]に生るること、真実信心のひとはなきゆゑに無生といふ」(異本)([[高僧和讃#no46|高僧 P.586]])
  
 
 無生無滅の生。浄土の往生は生滅(迷い)を超えたものであることをいう。([[一代記#P--1245|一代記 P.1245]])
 
 無生無滅の生。浄土の往生は生滅(迷い)を超えたものであることをいう。([[一代記#P--1245|一代記 P.1245]])
  
【左訓】「[[六道]]の生を離れたる生なり。六道[[四生]]に生るること、真実信心のひとはなきゆゑに無生といふ」(異本)([[高僧和讃#P--586|高僧 P.586]])
 
 
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無生無滅の生のこと。浄土への往生は凡夫が認識するような実体的な生ではあなく、生滅変化(迷い)を超えたものであることをいう。
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無生無滅の生のこと。浄土への往生は凡夫が認識するような実体的な生ではなく、生滅変化(迷い)を超えたものであることをいう。
 
『論註』には、
 
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:かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。([[浄土論註 (七祖)#P--123|論註 P.123]])
 
:かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。([[浄土論註 (七祖)#P--123|論註 P.123]])
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: 無生の生なりければ
 
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とあり、「国宝本」左訓には、
 
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:「六道の生を離れたる生なり。六道四生に生るること、真実信心のひとはなきゆゑに無生といふ」
 
:「六道の生を離れたる生なり。六道四生に生るること、真実信心のひとはなきゆゑに無生といふ」
 
とある。(浄土真宗辞典)
 
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:① 生ずるということのないこと。生ずることがなければ従って滅することもないから、無生滅または無生無滅といい、あらゆるものごとがその本質において実体がなく空であるから、生じたり滅したり変化するこのとないのをいう。
 
:① 生ずるということのないこと。生ずることがなければ従って滅することもないから、無生滅または無生無滅といい、あらゆるものごとがその本質において実体がなく空であるから、生じたり滅したり変化するこのとないのをいう。
 
:② 阿羅漢または涅槃の意訳。
 
:② 阿羅漢または涅槃の意訳。
:阿弥陀仏の本願によって浄土へ生まれるのは、阿弥陀の本願が無生である涅槃の理にかなったものであるからであり、凡夫が考えているいつわりのむなしい生とは異なるとし、浄土論註の中で曇鸞はこれを無生之生と名づけた。涅槃には生滅がないという点から、涅槃をさとることをまた無生身を証するともいい、極楽は涅槃にかなった世界という意味で無生界ということもある。(仏教学辞典)
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:阿弥陀仏の本願によって浄土へ生まれるのは、阿弥陀の本願が無生である涅槃の理にかなったものであるからであり、凡夫が考えているいつわりのむなしい生とは異なるとし、『浄土論註』の中で曇鸞はこれを無生之生と名づけた。涅槃には生滅がないという点から、涅槃をさとることをまた無生身を証するともいい、極楽は涅槃にかなった世界という意味で無生界ということもある。(仏教学辞典)
 
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:'''諸行無常 是生滅法''' 流転門
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:'''生滅滅已 寂滅爲樂''' 還滅門
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::生滅 滅し已りて、寂滅を楽と為す。→[[hwiki:大般涅槃経/2#mk-sessan-d|諸行無常偈]]
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:::この生滅へのとらわれを滅し尽くして、生なく滅なき寂滅をもって楽と為す。
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2024年7月5日 (金) 12:48時点における最新版

むしょうの-しょう


【左訓】「六道の生を離れたる生なり。六道四生に生るること、真実信心のひとはなきゆゑに無生といふ」(異本)(高僧 P.586)

 無生無滅の生。浄土の往生は生滅(迷い)を超えたものであることをいう。(一代記 P.1245)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

無生の生

無生無滅の生のこと。浄土への往生は凡夫が認識するような実体的な生ではなく、生滅変化(迷い)を超えたものであることをいう。 『論註』には、

かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。(論註 P.123)

とある。『高僧和讃』には、

如来清浄本願の
 無生の生なりければ
 本則三三の品なれど
 一二もかはることぞなき (高僧 P.586)

とあり、「国宝本」左訓には、

「六道の生を離れたる生なり。六道四生に生るること、真実信心のひとはなきゆゑに無生といふ」

とある。(浄土真宗辞典)

御開山は「真仏土巻」で、 

往生といふは、『大経』(上)には「皆受自然虚無之身無極之体」とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「如来浄華衆正覚華化生」といへり。また「同一念仏無別道故」(論註・下)といへり。{以上}また「難思議往生」(法事讃・上)といへるこれなり。 (真巻 P.372)

とされておられる。

皆受自然虚無之身無極之体
如来浄華衆正覚華化生
同一念仏無別道故
難思議往生
凡情を遮せず

無生(むしょう)

① 生ずるということのないこと。生ずることがなければ従って滅することもないから、無生滅または無生無滅といい、あらゆるものごとがその本質において実体がなく空であるから、生じたり滅したり変化するこのとないのをいう。
② 阿羅漢または涅槃の意訳。
阿弥陀仏の本願によって浄土へ生まれるのは、阿弥陀の本願が無生である涅槃の理にかなったものであるからであり、凡夫が考えているいつわりのむなしい生とは異なるとし、『浄土論註』の中で曇鸞はこれを無生之生と名づけた。涅槃には生滅がないという点から、涅槃をさとることをまた無生身を証するともいい、極楽は涅槃にかなった世界という意味で無生界ということもある。(仏教学辞典)
諸行無常 是生滅法 流転門
諸行(しょぎょう)無常(むじょう)なり、これ生滅の法なり。
すべての作られた存在(諸行)は移り変わる、これが生滅する世界の法である。
生滅滅已 寂滅爲樂 還滅門
生滅 滅し已りて、寂滅を楽と為す。→諸行無常偈
この生滅へのとらわれを滅し尽くして、生なく滅なき寂滅をもって楽と為す。