「両重因縁」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | + | 初重の因縁は、名号と光明のはたらきによって衆生が往生成仏の果を得ることを示し、これは行と証とが直接する教・行・証の'''[[三法門]]'''を表している。後重の因縁は、信心(内因)と光明・名号(外縁)によって衆生が往生成仏の果を得ることを示し、これは信と証とが直接する教・行・信・証の'''[[四法門]]'''を表している。(浄土真宗辞典) | |
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+ | この「両重因縁」釈の拠り所は『往生礼讃』の「光号摂化」の釈である。 | ||
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+ | この『往生礼讃』の意を、法然聖人が『三部経大意』で光明無量の願([[第十二願]])と念仏往生の願([[第十八願]])によって解釈された光号因縁釈を御開山が承けられて展開されたのが両重因縁釈であった。『三部経大意』は当サイトにUPしてあるので該当部分へのリンクを示す。→([[三部経大意#P--785|三部経大意P.785]])<br /> | ||
+ | なお初重の因縁は、法然聖人の[[念仏往生]]の法義を承けて'''[[三法門]]'''で示し、後重の因縁は[[念仏往生]]から別に「信」を開いて(信別開)'''[[四法門]]'''として信心正因といい、ともに往生の果をあらわしておられるのであった。「ただ信心をもつて求念すれば(但使信心求念)」の語に、なんまんだぶと称えて「仏願力をもつて易く往生を得(以仏願力易得往生)」る意を念仏が正定業であるという信心を顕開されたのであった。→[[業識|信心の業識]]<br /> | ||
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+ | 参考までに、以下に梯實圓和上著『聖典セミナー』教行の巻p.273より、光号摂化の『三部経大意』の該当部分の意訳を引用しておいた。 | ||
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+ | 阿弥陀如来は平等に一切の衆生を救おうと願う大慈悲にもよおされて、大悲の光明をもって十方の世界をくまなく照らし、一切の衆生に仏縁を与えようとして、光明無量であろうという誓願を立てられました。'''[[第十二願]]'''がこれです。<br /> | ||
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+ | そのゆえに釈迦如来がこの娑婆世界で本願の名号のいわれを説かれたように、十方にそれぞれガンジス河の砂の数ほどもまします如来たちも同じように本願の名号を説き示しておられるのです。<br /> | ||
+ | こういうわけで、大悲の光明は、十方の世界をくまなく照らして、人々を漏らさず念仏者に育て導き、摂取していく縁であり、往生の因である名号は、十方諸仏の称讃をとおして、人びとに聞こえないところはありません。「重誓偈」に、 | ||
+ | :われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。 | ||
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+ | と誓われたのは、そのゆえです。ですから、光明の縁に育てられ、名号の因を得て念仏者とならしめられたならば、光明と名号が因縁和合して、「念仏の衆生を摂取して捨てない」と仰せられたとおりの利益にあずかって、必ず往生することは疑うべきもないことです。<br /> | ||
+ | ですから『往生礼讃』にも、「諸仏のさとりの内容は(無分別智を完成されているという点では)同じで、変わりはありませんが、因位のときに立てられた願に違いがありますから、その願を満たすために行われた行にも違いがあり、そのために同じように完全なさとりの身となられていても、衆生済度(という後得智)のはたらきでは、それぞれのはたらきでは、それぞれの願行の因縁に応じた違いがあります。いま阿弥陀仏は、因位のときに、深重なる誓願をおこして、光明をもってあまねく衆生を育て導き、名号を往生の因として与えて救おうとされている」といわれています。 | ||
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+ | ともあれ、法然聖人の示された[[念仏往生]]と、御開山が提唱された[[信心正因]]は同じ往生成仏を示す表現の差異であったのである。 | ||
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+ | :→[[行信]] | ||
+ | :→[[三法]] | ||
+ | :→[[四法]] | ||
+ | :→[[三法立題]] | ||
+ | :→[[行信一念について]] | ||
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+ | [[Category:追記]]<p id="page-top">[[#|▲]]</p> |
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りょうじゅう-いんねん
光号因縁ともいう。「行巻」(行巻 P.187)にある一段で、阿弥陀仏のはたらきによって衆生の往生成仏が成立することを表す。徳号の慈父(因)と光明の悲母(縁)という因縁(初重の因縁)と、真実信心の業識(内因)と光明・名号の父母(外縁)という因縁(後重の因縁)との二重の因縁が示されていることから、このようにいう。
初重の因縁は、名号と光明のはたらきによって衆生が往生成仏の果を得ることを示し、これは行と証とが直接する教・行・証の三法門を表している。後重の因縁は、信心(内因)と光明・名号(外縁)によって衆生が往生成仏の果を得ることを示し、これは信と証とが直接する教・行・信・証の四法門を表している。(浄土真宗辞典)
- 良知
- まことに知んぬ、
- 無徳号慈父 能生因闕。
- 徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。
- 無光明悲母 所生縁乖。
- 光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。
- 能所因縁 雖可和合 非信心業識 無到光明土。
- 能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。
- 真実信業識 斯則為内因。光明名父母 斯則為外縁。
- 真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。
- 内外因縁和合 得証報土真身。
- 内外の因縁和合して報土の真身を得証す。
- 故宗師言 以光明名号摂化十方 但使信心求念。
- ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむとのたまへり。
- 又 云念仏成仏是真宗。又云真宗叵遇也。可知。
- また「念仏成仏これ真宗」といへり。また「真宗遇ひがたし」といへるをや、知るべしと。(行巻 P.187)
- 教行証の行証である三法門
- ┏ 名号━━因━━━┓
- 初重の因縁┫ ┣果━━ 往生光明土
- ┗ 光明━━縁━━━┛
- 教行信証の行信証である四法門
- ┏因(名号)━━┓
- ┏┫ ┣┓
- ┃┗縁(光明)━━┛┃
- 両重の因縁┫ ┣果━━ 往生光明土
- ┃┏因(信心)━━┓┃
- ┗┫ ┣┛
- ┗縁(光明名号)┛
この「両重因縁」釈の拠り所は『往生礼讃』の「光号摂化」の釈である。
- しかるに弥陀世尊、本深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をもつて求念すれば、上一形を尽し下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて易く往生を得。(往生礼讃 P.659)、(行巻で引文 P.165)
この『往生礼讃』の意を、法然聖人が『三部経大意』で光明無量の願(第十二願)と念仏往生の願(第十八願)によって解釈された光号因縁釈を御開山が承けられて展開されたのが両重因縁釈であった。『三部経大意』は当サイトにUPしてあるので該当部分へのリンクを示す。→(三部経大意P.785)
なお初重の因縁は、法然聖人の念仏往生の法義を承けて三法門で示し、後重の因縁は念仏往生から別に「信」を開いて(信別開)四法門として信心正因といい、ともに往生の果をあらわしておられるのであった。「ただ信心をもつて求念すれば(但使信心求念)」の語に、なんまんだぶと称えて「仏願力をもつて易く往生を得(以仏願力易得往生)」る意を念仏が正定業であるという信心を顕開されたのであった。→信心の業識
参考までに、以下に梯實圓和上著『聖典セミナー』教行の巻p.273より、光号摂化の『三部経大意』の該当部分の意訳を引用しておいた。
阿弥陀如来は平等に一切の衆生を救おうと願う大慈悲にもよおされて、大悲の光明をもって十方の世界をくまなく照らし、一切の衆生に仏縁を与えようとして、光明無量であろうという誓願を立てられました。第十二願がこれです。
次に南無阿弥陀仏の名号を浄土往生の因と定めて、これを与えて念仏の衆生たらしめて迎え取るために、念仏往生の願をたてられました。第十八願の願がこれです。このように本願の名号を浄土往生の因としておられることを、一切衆生にあまねく聞かせるために諸仏称揚の願をたてられました。第十七願がこれです。
そのゆえに釈迦如来がこの娑婆世界で本願の名号のいわれを説かれたように、十方にそれぞれガンジス河の砂の数ほどもまします如来たちも同じように本願の名号を説き示しておられるのです。
こういうわけで、大悲の光明は、十方の世界をくまなく照らして、人々を漏らさず念仏者に育て導き、摂取していく縁であり、往生の因である名号は、十方諸仏の称讃をとおして、人びとに聞こえないところはありません。「重誓偈」に、
- われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
- 究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。
と誓われたのは、そのゆえです。ですから、光明の縁に育てられ、名号の因を得て念仏者とならしめられたならば、光明と名号が因縁和合して、「念仏の衆生を摂取して捨てない」と仰せられたとおりの利益にあずかって、必ず往生することは疑うべきもないことです。
ですから『往生礼讃』にも、「諸仏のさとりの内容は(無分別智を完成されているという点では)同じで、変わりはありませんが、因位のときに立てられた願に違いがありますから、その願を満たすために行われた行にも違いがあり、そのために同じように完全なさとりの身となられていても、衆生済度(という後得智)のはたらきでは、それぞれのはたらきでは、それぞれの願行の因縁に応じた違いがあります。いま阿弥陀仏は、因位のときに、深重なる誓願をおこして、光明をもってあまねく衆生を育て導き、名号を往生の因として与えて救おうとされている」といわれています。